時事随想抄

歴史家の視点から国際情勢・時事問題などについて語るブログ

イベリア半島の「モンゴル系黒いユダヤ人」

 今日も、古代・中世史研究家の倉西裕子が記事を書かせていただきます。「イベリア半島系黒いユダヤ人」と「モンゴル系黒いユダヤ人」からなる「黒いユダヤ人」勢力の問題を考えるにあたり、まずもってイベリア半島の特異性について確認しておかねばなりません。かくも多くの「黒いユダヤ人」たちが、ヨーロッパ全土に拡大し、勢力を伸ばしえた背景には、イベリア半島が712年から1492年までの間、イスラム支配下にあったことは、極めて重要な問題のようなのです。
 
この時代、ヨーロッパ大陸最大規模の人口を有する都市は、60万人の人々が暮らしていたゴルドバでした。では、なぜ、60万人もの人々が、南は北アフリカ全土、東はインダス川を越えてインドにまで達していたイスラム帝国各地からイベリア半島に移住してきたのでしょうか。その目的は、以下の2つの点を挙げることができます。
 
1)十字軍時代においては、キリスト教国が、中近東のイエルサレムの奪還に集中している間に、背後からヨーロッパを狙うため。
2)ヨーロッパ諸国と交易するため。
 
イスラム教徒の多くは、第一の目的のもとにイベリア半島に移住していたと考えられますが、「白いユダヤ人」であろうと「黒いユダヤ人」であろうと、‘ユダヤ教徒’は、商業や交易を生業としてきた人々ですので、ヨーロッパ諸国との交易のために、イベリア半島に進出していたと考えることができます。こうしてイベリア半島への移住者の多くは、インド、エジプト、イラクなどの各地で生じていた「黒いユダヤ人」であったのでしょうが、交易を生業としている限りにおきましては、ヨーロッパ諸国に軍事的な脅威を与える存在ではなかったはずです。
 
しかしながら、モンゴルが、1258年に西アジアにイル・汗国を建て、小アジアや中近東にまで進出していたことには、注目する必要があるかもしれません。小アジアや中近東にまで進出するようになっていた「モンゴル系黒いユダヤ人」もまた、イベリア半島へと移住した可能性があるのです。
 
本ブログにおいて、再三にわたりモンゴルの思想が暴力主義の非文明的な残忍で恐ろしい思想であることを指摘しております。いわゆる「狂暴化したユダヤ思想(黒ユダヤ思想)」が生じており、その「モンゴル系黒いユダヤ人」の攻撃的な思想は、同じく暴力容認主義のイスラム教とは共鳴しやすかったはずなのです。イエズス会のイグナティウス・ロヨラやフランシスコ・カブラルがイベリア半島の出身であり、彼らが「モンゴル系黒いユダヤ人」の思想を伝播したユダヤ人と関連があったと仮定いたしますと、説明がつくかもしれません。
 
「モンゴル系黒いユダヤ人」が、イベリア半島に達していたことによって、ヨーロッパ北部の「モンゴル系黒いユダヤ人」との連携によって、ヨーロッパ諸国と英国は、‘挟み撃ち’にされる形となり、大きな脅威となってきたはずなのです。

 よろしければ、クリックをお願い申し上げます。

(続く)