時事随想抄

歴史家の視点から国際情勢・時事問題などについて語るブログ

”ユダヤ人”の多様化と内部対立ー近現代史の背景

 今日も、古代・中世史研究家の倉西裕子が記事を書かせていただきます。「英国史ヨーロッパ史における‘ユダヤ人’」といいましたならば、これまで一般的にアシュケナージを含む「白いユダヤ人」との関係史において捉えられてきたと言うことができます。しかしながら、「黒いユダヤ人」との関連史に注目した方が、今日の英国やヨーロッパの抱えている問題を説明することができます。
 
西暦70年にローマ帝国によってイエルサレムが占領された際に、アシュケナージ系の「白いユダヤ人」たちは、ローマ帝国の植民地のあったライン・ドナウ川を中心とした地域に移されました。このことから、ヨーロッパ大陸には、もとより「白いユダヤ人」が多かった、と言うことができます。ユダヤ教の経典でもある『モーゼの十戒The Ten Commandments』の教えが、ヨーロッパの人々の倫理観・道徳観やキリスト教に近かったこともあり、「白いユダヤ人」たちはヨーロッパ文化に馴染み、学術・法曹界・文筆・音楽・政治・芸術といった様々な分野において活躍し、ヨーロッパ・英国の一般社会において、そう大きな対立関係を生じさせることはありませんでした。ハイネChristian Johann Heinrich Heine,1797-1856年)やメンデルスゾーンJakob Ludwig Felix Mendelssohn Bartholdy, 180923 - 1847114日)がユダヤ人であったことは、驚きに値しないと言えるでしょう。
 
しかしながら、イスラム教がイベリア半島に進出してきた頃、すなわち、8世紀のはじめの頃から「黒いユダヤ人」たちも、ヨーロッパ大陸や英国に現れるようになってきた、と推測することができます。その理由は、北アフリカバグダッド、インド、中近東などにおいて多数発生していた「黒いユダヤ人」たちが、イスラム諸国による「黒いユダヤ人」優遇政策のもとにイベリア半島に集まり、徐々に、ヨーロッパ全土にも移住するようになったことにあるようです。モンゴルのヨーロッパ遠征は、北方ルートからの「黒いユダヤ人」の移住の機会となり、この傾向に拍車をかけたと推測することができます。
 
したがいまして、‘ユダヤ人’と総称されていましても、キリスト教に近い「白いユダヤ人」とイスラム教やモンゴル思想に近い攻撃的・非文明礼賛の「黒いユダヤ人」とがあり、‘ユダヤ人’問題を複雑化させたことになります。例えば、「ユダヤ対アラブ」というステレオタイプ的構図は、「白いユダヤ人」についてのみ言えることであり、「黒いユダヤ人」は、むしろイスラム勢力側にあると理解した方がよいかもしれないのです。
 
そして、近世以降は、むしろ「黒いユダヤ人」の方が、王室や政治権力に近づくようになり、近現代史において大きな影響を与えるようになってきたと、言うことができます。特に、サスーン・ロスチャイルド連合とも称すべき「モンゴル系黒いユダヤ人勢力」の問題が、昨日、ダイアナ元皇太子妃暗殺事件を扱いましたように、極めて今日的な問題となっていると考えることができるのです。
 
このことは、恐らくはサスーン・ロスチャイルド連合の支援を受けていると考えられる環境保護団体の「イエスマン」の代表が、イスラエルと敵対関係にあるはずのイランのホメイニの親族であると嘯いても通用したことや、ダイアナ元皇太子妃の交際相手であって、イスラム教徒のカーン氏が、ロスチャイルド家と姻戚関係にあることによっても示唆されるでしょう。現在のロンドン市長イスラム教徒のサディック・カーン氏であることにも、注意すべきであるかもしれません(サディック・カーン氏もロスチャイルド家の縁者である可能性は高い)。遅くとも、13世紀のマスター・ロバート氏にはじまり、16世紀のエリザベスⅠ世、そして、19世紀のヴィクトリア女王の時代を経て、現在におきましても「黒いユダヤ人」は、英国におきまして勢力を拡大しており、そして、拡大したがゆえに、これまで「白いユダヤ人」の影に隠れていたような「黒いユダヤ人」の問題は、表面化してきていると言えるのです。

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(続く)