時事随想抄

歴史家の視点から国際情勢・時事問題などについて語るブログ

「黒いユダヤ人」勢力のアジア東方への進出

 今日も、古代・中世史研究家の倉西裕子が記事を書かせていただきます。ジョージ・オーウェルインド帝国警察the Indian Imperial Police in Burmaの警官であったという経歴から、オーウェルには、インドとともにミャンマービルマ)との接点もあるようです。では、ミャンマーと「黒いユダヤ人」との間にも、何らかの繋がりがあるのでしょうか。
 
『インド・ユダヤ人の光と闇』によりますと、インドのケララ州の‘ユダヤ人(白いユダヤ人・黒いユダヤ人)’の間において指導的立場にあったコーダー家の子孫は、19世紀にバグダットからビルマを経由してインドにやってきたといいます。このことからバグダットの‘ユダヤ人(白いユダヤ人・黒いユダヤ人)’は、ビルマに居住していた時期があったことがわかります。では、なぜ、バグダットからミャンマーに移住するようになったのでしょうか。そこで、Wikipediaミャンマーについて調べてみますと、以下のような記述があります。
 
―― イギリスの挑発で引き起こされた1852年の第二次英緬戦争(英語版)で敗れると、ビルマは国土の半分を失い、国王パガン・ミン(英語版)(在位:1846年–1853年)が廃されて新国王にミンドン・ミン(英語版)(在位:1853年–1878年)が据えられた。イスラム教徒のインド人・華僑を入れて多民族多宗教国家に変えるとともに、周辺の山岳民族(カレン族など)をキリスト教に改宗させて下ビルマの統治に利用し、民族による分割統治政策を行なった。インド人が金融を、華僑が商売を、山岳民族が軍と警察を握り、ビルマ人は最下層の農奴にされた。この統治時代の身分の上下関係が、ビルマ人から山岳民族(カレン族など)への憎悪として残り、後の民族対立の温床となった。下ビルマを割譲した結果、ビルマは穀倉地帯を喪失したために、清から米を輸入し、ビルマは綿花を雲南経由で清へ輸出することになった。
 
1856年から1873年にかけて中国の雲南省・シップソーンパンナーでパンゼー(英語版)と呼ばれる雲南回民(チン・ホー族(英語版))によるパンゼーの乱が起こり、雲南貿易が閉ざされた結果、米をイギリスから輸入せざるを得なくなった。1858年から1861年にかけて新首都マンダレーを建設して遷都。イギリス領インドと印僑の反対で雲南問題は遅れていたが、18857月にイギリス側も芝罘条約を締結して解決し、雲南ビルマ間の国境貿易が再び許可された。188511月の第三次英緬戦争(英語版)で王朝は滅亡。――
 
 
この記述から、おそらくゴータ家は、「イスラム教徒のインド人・華僑を入れて多民族多宗教国家に変える」という英国政府の政策、否、ヴィクトリア女王の即位によって英国政府内に勢力を伸ばしていたロスチャイルド家とサスーン家の政策にもとづいて、バグダットからビルマに移住した隠れイスラム教徒の‘ユダヤ人’であったと考えることができます。このことから、ミャンマーにも、‘ユダヤ人(白いユダヤ人・黒いユダヤ人)’、特に「黒いユダヤ人」の拠点が築かれており、オーウェルは「黒いユダヤ人」が世界規模でその勢力を拡大させている脅威を実感していたのではないでしょうか。
 
7月4日付本ブログで述べましたように、インドのケララ州は、冷戦終焉後の1998年に至っても「赤旗はつねに見かけられるし、「共産党レストラン」の前には大きなマルクスの「頭部」の石像が置かれており、あたかもマルクスの故郷であるかの如き地域です。20世紀において、ミャンマーなどの東南アジア地域を含めて東アジアには、共産主義化の嵐が吹き荒れるわけですが、その背景には、ロスチャイルド家やサスーン家を中心とした「黒いユダヤ人」勢力があったと推測することができるのです。

 よろしければ、クリックをお願い申し上げます。

 
(続く)