時事随想抄

歴史家の視点から国際情勢・時事問題などについて語るブログ

富岡八幡宮事件が示す宗教改革の発生理由

 今日も、古代・中世史研究家の倉西裕子が記事を書かせていただきます。昨今、富岡八幡宮事件という宮司職をめぐる対立から、姉宮司を弟夫妻が殺害するという奇妙で、残忍な事件が発生いたしました。この事件をめぐる報道から、姉宮司と弟夫妻の3者ともに、その私生活においては放蕩の限りを尽くしていたことがわかります。

 
では、なぜ、莫大な遊興費を使うことができたのか、その理由は、初詣出だけで30万人といわれる参拝者からの玉ぐし料、御払い料、御賽銭などにあったようです。参拝者は、子供から老人まで、神様に対してたとえ僅かであっても御賽銭などを献じることが伝統・慣習となっております。参拝者は、そのような献金は、社殿の修理修繕、人件費など、神社の維持費、すなわち、ご祭神のために使われていると信じていたことでしょう。ところが、実際には、宮司職にある者の私的遊興費に使われていたというのですから、驚きです。

弟夫妻が、自らの子に宮司職を継がせるために、姉宮司を殺害したとされておりますが、真の動機は、宮司という名誉を得るためではなく、莫大な利益を得るという金銭目的であったとも考えられるのです。
 
同じような問題は、歴史的にも見ることができます。中世ヨーロッパにおきまして、カトリックの聖職者たちは、腐敗し、放蕩の限りを尽くしていたそうです。挙句に、持っている人は無条件で天国へ行けると謳って、贖宥状というお札を売り出す始末でした。贖宥状の背景にも、聖職者という地位と金銭をめぐる問題点が見えてまいります。Wikipedia日本語版は、以下のように記述しております。
 
―― ヨーロッパ全域の中で特にドイツ国内で大々的に贖宥状の販売が行われたのには理由があった。それは当時のマインツ大司教であったアルブレヒトの野望に端を発していた。彼はブランデンブルク選帝侯ヨアヒム1世の弟であったが、初めマクデブルク大司教位とハルバーシュタット司教位を持っていた。さらにアルブレヒトは兄の支援を受けて、選帝侯として政治的に重要なポストであったマインツ大司教位も得ようと考えた。しかし、司教位は本来一人の人間が一つしか持つことができないものである。
 
アルブレヒトローマ教皇庁から複数司教位保持の特別許可を得るため、多額の献金を行うことにし、その献金をひねり出すため、フッガー家の人間の入れ知恵によって秘策を考え出した。それは自領内でサン・ピエトロ大聖堂建設献金のためという名目での贖宥状販売の独占権を獲得し、稼げるだけ稼ぐというものであった。こうして1517年、アルブレヒトは贖宥状販売のための「指導要綱」を発布、ヨハン・テッツェルというドミニコ会員などを贖宥状販売促進のための説教師に任命した。アルブレヒトにとって贖宥状が一枚でも多く売れれば、それだけ自分の手元に収益が入り、ローマの心証もよくなっていいこと尽くしのように思えた。アルブレヒトの思惑通り、贖宥状は盛んに売られ、人々はテッツェルら説教師の周りに群がった。…――
 
こうした贖宥状問題のみならず、信者たちは、神様に対して献じていたはずの教会への献金が、聖職者たちの遊興費や個人的野望のために使われてしまうという問題に直面することになってしまったのです。これでは、何のために、教会に通うのかわからなくなってしまいます。

そこに現れたのが、マルチン・ルター(Martin Luther14831110 - 1546218日)というドイツの神学者、教授、作家、聖職者であり、ルターが、1517年にカトリックの聖職者への抗議文、『95ヶ条の論題』をヴィッテンベルクの教会に掲出したことを発端に、多くのキリスト教徒がローマ・カトリック教会から分離し、プロテスタントを形成してゆくようになるのです。
 
歴史を鑑みますと、富岡八幡宮事件は、宗教組織の在り方、何らかの改革の必要性をも問うているのではないでしょうか。

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(続く)