アッシジのフランチェスコの思想は間違え
今日も、古代・中世史研究家の倉西裕子が記事を書かせていただきます。イエズス会(フランチェスコ派)の思想の根幹をなしているアッシジのフランチェスコ(伊:Francesco d'Assisi、ラテン語:FranciscusAssisiensis、1182年 7月5日 - 1226年10月3日)の「物質的豊かさのみならず、精神的豊さも認めない」という思想が如何に危険であるのかを昨日指摘いたしました。
極貧層は、フランチェスコの唱える理想的状態である「物質的豊かさを認めない」状態に近いことから、極貧状態のままでよいということになる問題は、現在、世界に存在している極貧層の問題のみならず、人類の将来において、イルミナティーが、「イルミナティーのメンバー以外の人々の物質的豊かさを認めない」という解釈に発展させて、イルミナティーのメンバー以外の人々、特に、中間層、並びに、イルミナティーの攻略対象国の国民をも極貧層に陥れる計画を進めていると推測することができることにおいて、重大問題であるからです(米国では、既に、中間層の没落問題は、大きな社会問題)。
そこで、「物質的豊かさのみならず、精神的豊さも認めない」というフランチェスコの思想自体が、まずもって間違いであることを、ここで論証しておきましょう。今日は、物欲問題について扱います。
仮に、フランチェスコの言うような「物質的に豊かではない状態」に自らを置こうといたしますと、最低限の食糧だけは必要となるでしょう。では、たとえ最低限であっても、誰がその食糧を生産しているのか、といいますと、完全な自給自足ではない限り、他者であると言えます。このように考えますと、その他者は、自分以外の人々の分となる余剰生産を行っていることになります。そして、その余剰生産は、その他者にとりましては、必要最小限の食糧ではありませんので、「豊かさ」の範疇に入ります。
医学、生物学、栄養学が発展した今日におきまして、栄養素的に、人類には、様々な種類の食品が必要であるとは、はっきりしております。人ひとりで、これらの食品群を生産することは不可能なのですから、生産者による余剰という「物質的豊かさ」が無ければ、人類は、存続しえないのです。
さらに、アッシジのフランチェスコは、「裸のイエスに、裸で従う」ことをモットーとしており、お洋服も、「物質的豊かさ」として否定しているようです。しかし、『聖書』「創世記The Genesis」には、エデンの東の園で、善悪を知る木の果実を食して善悪を知るようになったアダムとイヴに対して、さっそく神様はお洋服を作って着せていることに象徴されておりますように、お洋服の存在は、人類が善悪の判断能力、良心、自尊心、羞恥心を備えた証であり、人間の尊厳の一つとして、人類の人類たる由縁でもあるのです。
神様とは、人類の幸福を願う存在です。このように考えますと、フランチェスコはキリスト教の聖人として崇められてはおりますが、ここで、一つ、疑ってみるべきであり、その「物資的豊かさを認めない」という思想自体が間違えであり、イエズス会のフランチェスコ派の思想、そして、イルミナティーの思想も、こうした間違えにもとづいた思想であると言えるのです。
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(続く)