『山猫』が描くイエズス会(イルミナティー)の恐怖思想
今日も、古代・中世史研究家の倉西裕子が記事を書かせていただきます。イタリア映画『山猫The Leopard』(1963年)が、イルミナティー問題をテーマしていることは、以下のセリーナ公爵をめぐる点からも窺うことができます。
第一に、セリーナ公爵家の「セリーナ」は月を意味していると推測される点です。2月16日付本ブログにて、「イルミナティーの「禿頭=月の支配者=世界の支配者計画」」と題しまして、イエズス会の創設者のロヨラが、その禿げあがった自らの頭を、太陽光を受けて白く輝く月に譬えて、自らを月と捉えたことから、「禿頭=月の支配者=世界の支配者計画」という奇妙な構図と計画が見えてくる点を指摘いたしました。「セリーナ」という家名が設定されている点は、まさに、『山猫』が、イルミナティーのトップに近い家筋をモデルとして制作されていた可能性を示していると言えるでしょう。
第二に、セリーナ公爵の子息の名が、「フランチェスコ」であることも、注目されます。本ブログにて再三にわたって指摘しておりますように、イエズス会は、「物質的豊かさのみならず、精神的豊かさも認めなかった」とされるアッシジのフランチェスコによって創設されたフランシスコ修道会と近い関係にあり、イエズス会内には、フランシスコ派が形成されてその主流となっておりました(現在では、イエズス会は、ほぼ完全にフランシスコ派に掌握されるものとなっているようであり、このことは、ヴァチカン史上初のイエズス会出身の現法王が、「フランスシスコⅠ世」と名乗ったことに示唆される)。
『シェルブールの雨傘』問題など、本ブログにおいて再三にわたり扱っておりますように、イルミナティーのメンバーは、「フランシスコ」、「フランソワ」、「フランソワ―ズ」、「フランコ」など、アッシジのフランチェスコに因んだ名前に拘る傾向にあります。セリーナ公爵が、その子息に「フランチェスコ」と名付けたことは、セリーナ公爵がイエズス会士のフランシスコ派であって、イルミナティーのメンバーであることを示唆していると考えることができます。もっとも、セリーナ公爵は、家政司祭としてイエズス会士を身近に置いておりますので、「隠れイエズス会士」ではなく、フランスのド・ゴールのように、紛れも無いイエズス会士という設定なのでしょう。このように考えますと、セリーナ公爵はイグナティウス・ロヨラ、家政司祭のイエズス会士はフランシスコ・ザビエルにも見えてまいります。
そこで、セリーナ公爵の豪奢で退廃的・怠惰な生活とイエズス会の「物質的豊かさのみならず、精神的豊かさも認めない」というモットーとの関係を考えてみることにしましょう。精神的豊かさも認めない点は、セリーナ公爵が、無教養で野蛮なアンジェリカを特に気に入っている点、そして、人々のために尽くすという社会貢献しようという意思が無いこと、すなわち、崇高な精神が欠けている点において見てとることができます。では、物質的豊かさを認めないという点はどうでしょうか。
セリーナ公爵は、物質的豊かさを認めない生活とは到底言えないような贅を極めた生活をおくっております。そこで、「物質的豊かさを認めない」というモットーを、セリーナ公爵は、「イルミナティーのメンバー以外の人々の物質的豊かさを認めない」という意味に解釈している可能性を指摘することができます。セリーナ公爵は、その領民達が極貧状態にあることに対して、まったく良心の呵責を感じておりません。むしろ、その状態を当然であると捉えているのです。極貧の人々は、むしろ、アッシジのフランチェスコが理想として唱えた「物質的豊かさを認めない」状態に近いことから、極貧状態のままでよいということになるのでしょう。
かくて、イエズス会(イルミナティー)の思想の怖さは、「オーナーと最下層民」のみによって構成される世界を、少しでも改善しようという方向に人類を向かわせず、むしろ、「オーナーと最下層民」のみによって構成される世界へと向かわせる、もしくは、こうした体制を維持させるべく世界支配計画を進めている点にあると言うことができるかもしれません。
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(続く)