ノートルダム大聖堂の火災の背後には何があるのか:火災事件をめぐる仮説
今日も、古代・中世史研究家の倉西裕子が記事を書かせていただきます。昨日、4月15日夜半、ノートルダム大聖堂Cathédrale Notre-Dame de Parisが火災に見舞われたという衝撃的事件が、世界を駆け巡りました。
現在までのところ、放火を示す証拠は無いとされているものの、黄色のベスト運動に示されますように、イルミナティー側と反イルミナティー側との対立が深まりをみせている中での火災ということもあり、イルミナティー絡みの事件である可能性は、否定され得ません。そして、1163年に着工され19世紀まで増改築が繰り返されたというノートルダム大聖堂の長く複雑な歴史を踏まえますと、事件は、イルミナティー側と反イルミナティー側のどちらによっても起こされた可能性があると言うことができます。
まず、イルミナティー側によって起こされたとする説は、ノートルダム大聖堂が、「Notre-Dame 我らが貴婦人」というその名が示すように、聖母マリアに捧げられた寺院である点によって導かれます。本ブログにて再三にわたって指摘しておりますように、イルミナティー(イエズス会)は、秘かに、聖母マリアではなく、「黒マリア」という未開・非文明世界を象徴する女性を崇拝しております。このことから、ノートルダム寺院は、イルミナティー側のライバル寺院であるとも言うことができるのです。このように考えますと、イルミナティー側が、本物の聖母マリア信仰を地上から抹殺するために、大聖堂に放火したとも考えることができるのです。1345年に竣工した大聖堂は、全体の色合いから、「白マリア」を意味する「白い貴婦人」とも称されていることも、こうした点を補うでしょう。
その一方で、反イルミナティー側によって起こされたとも考えることができます。その最たる理由は、大聖堂は、増改築が繰り返されており、今回消失した屋根の尖塔は、19世紀のものであることです。フランス革命によって、寺院は大きな被害を受けます。ヴィクトル・ユーゴVictor-Marie Hugo(1802年2月26日 - 1885年5月22日)の『ノートルダムのせむし男Notre-Dame de Paris』の出版によって寺院を修復・復興する気運が高まった19世紀になってから屋根の尖塔は再建されており、その修復計画は、新たな思想にもとづいているとも推測することができるのです。
その新たな思想とは、イルミナティーの思想であると推測することができます。増改築を行った建築家のウジェーヌ・エマニュエル・ヴィオレ・ル・デュクEugène Emmanuel Viollet-le-Duc(1814年1月27日 - 1879年9月17日)は残っていた尖塔のデッサンを発展させて、以前よりも10メートルほど尖塔を高くしてしまいましたので、尖塔は、あたかも、イスラムのミモレット(尖塔)のような形状に見えます。また尖塔基部の周囲に福音史家と十二使徒の彫像を付加するという大幅な現状変更であり、また彫像のモデルがヴィオレ・ル・デュク自身や工事に携わったスタッフたちなどであったことが、その後大々的に批判を浴びており、ここにもイルミナティー側の思想を見てとることができるでしょう。
火災によって消失した大部分が、19世紀にイルミナティーの思想にもとづいて造られた新しいものであることを踏まえますと、火災は、イルミナティーへの抵抗を示すために、反イルミナティー側によって起こされた可能性もあるのです。
いずれにいたしましても、火災の現場検証とその原因究明の調査結果が待たれるところです。
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(続く)