時事随想抄

歴史家の視点から国際情勢・時事問題などについて語るブログ

「フルベッキ群像写真」の謎のキーパーソンはフルベッキ?

本日も、古代・中世史研究家の倉西裕子が、記事を書かせていただきます。昨日、『フルベッキの集合写真』は明治維新の真相を大いに語ってくれることになると述べました。では、どのような点が『フルベッキの集合写真』、すなわち、通称、「フルベッキ群像写真」から見えてくるのでしょうか。
 
まず、明治維新の謎を解くポイントの一つは、フルベッキにあることを指摘することができます。NHKの『ダークサイド』という番組は、「フルベッキ群像写真」は、幕末、明治元年1868年)頃に、オランダ系米国人宣教師のフルベッキGuido Herman Fridolin Verbeck、あるいはVerbeek(1830123 - 1898310日)が、当時教鞭を執っていた佐賀藩が長崎に創設した英語養成学校の「致遠館」を去って東京に移る際に、学生らとともに記念に撮らせた可能性が高い写真であるとしており、Wikipedia日本語版でも、同じような説明がされております。
 
この写真が撮影された写真家・上野彦馬の長崎のスタジオは、慶応4年になって増築されたスタジオであること、Wikipedia日本語版には、「明治元年108日(18681121日)にフルベッキと佐賀藩中老・伊東次兵衛(外記、祐元)が致遠館教師である佐賀藩5人(中島永元、堤薫信、中野健明、中山信彬、副島要作)と一緒に撮影されたガラス湿板写真(撮影者は上野彦馬)が見つかった。その写真の撮影日を裏付ける伊東次兵衛の日記の存在も知られている。ガラス板に写る致遠館教師5人はほぼ同じ姿で「フルベッキ群像写真」にも写っている」とあること、明治元年に致遠館で学んでいた岩倉具定と岩倉具経も映っていることから、「フルベッキ群像写真」の人物達は、明治維新の志士達ではなく、佐賀藩の学生であったということで、謎は解けたように見えます。
 
しかしながら、佐賀藩の学生は30名であるにもかかわらず、写真には44名が写っているという謎は残されております。岩倉兄弟の二名を加えても、32名であり写真には、佐賀藩の学生以外に長崎にやって来ていた謎の人物達の姿が写っている可能性があるのです。
 
そもそも、「フルベッキ群像写真」をめぐって、写真に写る明治維新の志士達探しが始まったのは、この写真には、西郷隆盛などが写っているとする噂があったからです。その噂から、昭和49年(1974年)、肖像画家の島田隆資氏が雑誌『日本歴史』(吉川弘文館)に、「この写真には坂本龍馬西郷隆盛高杉晋作をはじめ、明治維新の志士らが写っている」とする論文を発表したのです。坂本竜馬は、明治元年当時既に亡くなっておりますので、あり得ないということになるのですが、坂本竜馬生存説があります。竜馬は英国のスコットランド、もしくは米国に逃亡していたとする説であり、暗殺現場の天井が極めて低く、竜馬の頭上に刀を振り下ろすことは不可能であると推測されることから、この逃亡説は強ち否定され得ません。
 

そこで、フルベッキは宣教師ネットワークを通して日本人留学生の留学斡旋も行っていた点が注目されます。フルベッキは、日本人を、長崎の出島から比較的自由に出国させることができる立場にあったのです。フルベッキがイルミナティーのメンバーであったのか、否かはわかりませんが、このことから、フルベッキは、暗殺されたと見せかけて、生存している人を海外逃亡させる手助けしていたとも推測することもできるのです。



このように考えますと、坂本竜馬が本当に写っているのか否かは別といたしましても、明治維新の志士達のすべてではないにせよ、やはり「フルベッキ群像写真」には、佐賀藩士以外の謎の人物が写っている可能性があると言えるでしょう。

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(続く)