時事随想抄

歴史家の視点から国際情勢・時事問題などについて語るブログ

大奥・瀧山は稀代の悪人

本日も、古代・中世史研究家の倉西裕子が、記事を書かせていただきます。昨日、NHKの『英雄たちの選択SP』という番組にて、幕末の大奥を取り仕切っていた老女の瀧山について扱っておりました。瀧山の贈答品のみを記した日記が近年発見され、その分析・解析の結果から見えてくる当時の幕府(大奥も含む)の状況、権力構造を番組にて紹介するという企画であったようです。
 
日記からは、瀧山は、左遷されていた幕臣の復帰、焼失した本丸御殿の再建、転封の中止、次代将軍の決定など、幕政に大きな影響を与えていたことがわかってまいりました。徳川慶喜が、「瀧山が権力を掌握している限り幕府を改革することができない」という主旨の理由から、将軍就任を断っていたほどですので、瀧山は、事実上、幕府の“影の支配者”、“キングメーカー”であったようなのです。
 
その瀧山の日記が、贈答品のみを延々と記載した日記であることが明確に示しておりますように、瀧山の政治は、徹底した賄賂政治でありました。すなわち、上記のような政治的動きの直前・直後の時期に、瀧山の日記には、当事者から瀧山への莫大な贈答品が記されているのです(富と権力が瀧山に集中)。誰がどのように考えても、現在であれば瀧山は収賄罪で処罰を受けるべき悪人なのですが、NHKのスタジオの出演者たちの多くは、不可思議なことに、瀧山を高く評価しておりました。このことから、こうした出演者のメンタリティーと番組の隠された意図にこそ問題がある気がいたします。
 
例えば、大塩平八郎の乱を招くほどの悪政を敷いたために、幕府から左遷されていた跡部良弼を、瀧山が贈答品を受けて復帰させたことに関して、出演者の一人の磯田氏は、「徳川家定の生母の実家が跡部家であり、跡部を左遷したままにしておくと、家定の権威にかかわることから、徳川家存続のために瀧山は徳川家への忠義として跡部を復帰させた」、また、「当時の日本は、徳川ファミリーのものであった」とする主旨の解説で跡部を擁護しておりましたが、これは大きな間違えであると考えることができます。
 
瀧山が徳川家の存続を本当に願っていたといたしましたならば、正しい対応は、跡部を左遷させたままにしておくという対応であったと推測することができるからです。そもそも大塩平八郎の乱は、前年の不作によって、「天下の台所」と評されるほどのお米の集荷地であった大阪でさえも、人々が飢餓に苦しむようになっていたにもかかわらず、大阪東町奉行であった跡部が、人々にお米を供出せずに、お米を大阪から江戸へと運び去ってしまったことに起因しております。このように、国民からの怨嗟の対象となっている人物を幕府の要職に復帰させたとなりますと、徳川家の評判も下がるはずです。すなわち、瀧山は、徳川家への忠義ではなく、賄賂によって動いていたと推測することができるのです。
 
そして、「当時の日本国が、徳川ファイリーのものであった」という点も間違っていると言うことができます。「征夷大将軍」が、古来、官職の一つであったことに示されますように、幕府の役割は、国内の治安維持と社会秩序の安定にあり、天下は預かり物に過ぎないのです。
 
目的達成のための“屁理屈”をつくることにかけては、右に出る者はいない瀧山のような人物が権力の頂点に立ち、賄賂に左右される自己中心的で、短絡的な政策を行ったからこそ、江戸時代の人々は幕政によって苦しみ、幕府もまた、開国問題によって賢明、迅速な対応が迫られる中で混乱に陥ったと推測することができるのです。所謂“瀧山政治”の蔓延によって、幕府は、滅びるべくして滅んだと言えるでしょう。
 
にもかかわらず、スタジオの出演者の多くが瀧山を高く評価していることは、そら恐ろしく、番組の真の目的は、民主主義を否定し、ウルトラ自己中心主義の“瀧山政治”の再来に人々を慣れさせる、もしくは、誘導することにあったのではないではないか、と疑ってしまうのです。
 
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(続く)