時事随想抄

歴史家の視点から国際情勢・時事問題などについて語るブログ

イスラム原理主義者への説得

 政治と宗教の問題は、それぞれの宗教によって違ってきます。本日は、頑なに民主主義を拒否しているイスラム原理主義者への説得を試みてみたいと思います。

 イスラム教徒は、聖典であるコーランにおいて、異教徒との闘いを認めています。キリスト教にあっては、”右の頬を打たれたら左の頬をむけよ”であったり、仏教でも、欲を持って人の命を奪うことを禁じていますが、イスラム教にあっては、コーランを文字通りとりますと、アッラーの神を信じない者への攻撃は許されるのです(もっとも、最大のジハードは、おのれ自身との闘いと言われているようですが・・・)。このため、イスラム原理主義者に対しては、昨日のブログで書いたような、政治と宗教上の信条や教義との間にある根源的な二律背反性をもって、政教分離を説得することはできません。

 そこで、イスラム原理主義者の民主主義否定の根拠が、”民主主義は、神の決定権を奪っている”という主張を取り上げてみたいと思います。この主張の奥には、”神がこの世の全ての物事を決定する”という世界観があります。しかしながら、イスラム教とて、マホメットを最後の預言者としているのですから、この世には、神の意志を直接に聞くことができる人間はもはや存在しないはずです。ですから、イスラム原理主義者もまた、自らの行動が、神の意志であることを証明できないのです。このことは、原理主義者達こそ、神の決定権を奪っているかもしれないことを示唆しています。そうして、神の意志が人間には正確に知られない以上、政治といった俗世のものごとは、人間が決定するしかないのです。同時にこれは、政治的な決定に、人々が参加しても良いことを意味しています。そもそも、コーランは、特定の”誰か”に政治的な権限を与えているのではないのですから。

 イスラム原理主義者は、この説明で納得するでしょうか。イスラム諸国にありましても、民主主義は、充分に可能であると思いますし、福祉や社会秩序の分野においては、その国の人々が、それを望むならば、イスラム教を強引に排除する必要もないでしょう(イスラム教の否定は、西欧の価値観の押しつけとして反発を招くかもしれませんし、民主化されれば、望ましくに慣習は自ら改めるかもしれません・・・)。民主化の意義とは、イスラム諸国が、平和的な国際秩序を尊重し、人々が自らの生活水準を上げ、そうして、良き治安の下で生活できるようになることにこそあると思うのです。それは、イスラム教徒の人々にとっても望ましいことなのではないでしょうか。