時事随想抄

歴史家の視点から国際情勢・時事問題などについて語るブログ

非暴力主義と統治責任のジレンマ

 誰もが、暴力を憎み、できることならばこんな野蛮な手段は使いたくないと思うものです。ダライ・ラマ14世をはじめとして仏教徒の方々は、非暴力主義を以って平和を説き、他者の命を奪うことを強く戒めます。日本国の憲法第9条を守ろうとする方々の倫理観も、暴力を嫌う人間性への信頼に基づいています。しかしながら、その一方で、暴力を振われた場合には、なすすべもないこともまた現実なのです。

 政治の世界では、宗教の世界とは違って、為政者は、現実的な役割を果たす義務を負います。国を守ることも、国民の命を守ることも、その重要な義務の一つです。ですから、政府は、防衛のために軍隊を持ち、いざという時には戦争をも辞さないのです。しかしながら、政教一致の体制にあっては、ここで、大きなジレンマにぶつかります。仏教徒としての生き方と、現実の救いが一致しないからです。かつて、マックス・ヴェーバーも、『職業としての政治家』の中で、キリスト教の山上の垂訓の例をひいて、この問題を扱いました。因みに、ヴェーバーの結論は、政治家は、統治責任を優先せよ、というものでした。

 もし、仏教徒の方々が、チベット問題を非暴力主義で解決したいと切に望むならば、野獣と化した中国政府の人々を改心させることが何よりの近道です(自らの行為を恥じて、チベットに主権を返還するかもしれない…)。ただし、人の心を変えるということは、非常に難しいことでもあるのです。時にして、キリスト教や仏教が、野蛮から人類を救いだしたことにおいて、驚嘆を覚えることがあります。現代においても、あるいは、野蛮からの目覚めが奇跡を起こすかもしれません。しかしながら、それには長い時間がかかり、しかも、その間、チベットの人々の犠牲を回復不可能なほど増大させるならば、チベット救済を政治家の手に委ねることも、選択肢の一つとして考えなくてはならないと思うのです。

 よろしければ、クリックをお願いいたします。
<A HREF="https://blog.with2.net/in.php?626231">人気ブログランキングへ</A>