時事随想抄

歴史家の視点から国際情勢・時事問題などについて語るブログ

原爆投下の罪滅ぼしの道

 昭和20年8月6日と9日、広島と長崎に投下された原子爆弾は、軍属の方々のみならず、多くの民間の方々の命を一瞬のうちに失わせることとなりました。この原爆投下の歴史的な評価については、日米の間には、埋めがたき隔たりがあり、しばしば反米感情が高まる原因となってきました。この忌わしい惨事から半世紀を過ぎた今日にあって、私なりに、この原爆投下について考えてみることにしました。

 アメリカが原爆投下を正当とする理由とは、第一に、ソ連邦に対して原爆の威力を見せ付け、アメリカ優位の戦後体制を決定づけたこと、第二に、日本国に対しては戦争継続の意思を萎えさせ、戦争終結を速めたこと、などが挙げられています。これらの根拠には、確かに、ソ連による本土占領と、本土決戦に際しての犠牲を回避という、日本国側にとっての利点もありました。これは、認めざるを得ないことかもしれません。

 しかしながら、その一方で、原爆投下が、無防備な民間人への攻撃を禁じた戦争法に違反した行為であったことも、また確かです。戦争となった限り、命の取り合いになるのは致し方がありませんが、ルールを守った正々堂々の戦いでありませんと、負けた側には納得できない感情が残るものです。客観的に見ましても、日本国の敗戦は必至でありながら、やはり、違法かつ無残な攻撃を受けたことは、戦後にしこりを残すことになったのです。

 アメリカの合理性と日本側に予測される利点を認めながらも、原爆投下が、国際法違反の行為であったことを、どのようにとらえるべきなのでしょうか。おそらく、アメリカは、合理的ではあるけれども、誰も裁くことができなかった道義的な罪は負っているのかもしれません。そうして、もし、原爆保有国としてアメリカが罪滅ぼしをする道があるとしたら、それは、保有国の責任をもって、核拡散を防止することではないか、と思うのです。もし、NPT体制が守られ、歴史の悲劇の繰り返しに終止符を打つことができたならば、広島と長崎で払われた尊い命の犠牲は、全ての人類に恩恵をもたらすことになるでしょう。

 原爆で犠牲になられた方々を心より悼んで。

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