時事随想抄

歴史家の視点から国際情勢・時事問題などについて語るブログ

開かれた皇室と不敬罪の問題

 東宮問題で明らかになったことは、皇室が、国民からの批判にあたいする行為を行った場合、どのように対処すべきか、という問題提起です。この問題に対しては、1)神聖であるべき皇室に対する批判は、不敬にあたるので、一切の批判はしてはならない、2)国民には言論の自由も知る権利もあるので、批判は許される、というおよそ二つの方向性があります。

 1)の考え方は、批判を排除することによって、皇室を守ろうというものですが、この対処にも、問題点があります。あ)皇族は、皇祖神の魂を引き継いでおられるものの、絶対神ではないため、誰かが諫言しなくては誤りを直すことができない、い)批判を封じると、むしろ、国民からの反発が強まり、皇室の支持基盤を弱体化する(情報統制は信頼喪失の原因に・・・)、う)不敬罪の復活は、国民の合意が必要であり、かなり難しい、え)もし不敬罪を復活させるとすれば、憲法違反になりかねない、お)民間出身の皇族もおり、すべての批判を封じるには広範囲の監視体制を要する、といった問題点があります。

 2)の考え方は、1)とは反対に、自由な批判や議論を通して、皇室があるべき姿に立ち返ることを促す方法と言えます。しかし2)の方法にも欠点があり、あ)事実に基づかない誹謗中傷が行われる、い)特定の勢力が世論操作を行えば、意図的に国民の間に皇室に対する反感が醸成される、う)ひと度、皇室の信頼性に傷がつくと、修復がきわめて困難である、といった点を挙げることができます。

 それでは、どちらの方向性が正しいのでしょうか。私は、やはり、2)の方向性の方が、望ましいのではないか、と思うのです。その理由は、2)のほうが、深く人間の本質に基いているからです。人間とは、自らが信頼できないものに対して、心から尊敬することができないのです。もし、皇室が内部から変質し、誹謗中傷や世論操作ではなく、”事実”として法に触れるような、もしくは不道徳と非難されるような非為が行われ、神聖性が失われた状態に至っても、それをそのままにして、尊敬せよと要求されても、自らの心を偽ることに耐えられなくなります。また、自由な議論を許しませんと、解決策も見つからなくなります。開かれた皇室を歩む限り、国民からの批判は仕方がないと思うのです。

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