時事随想抄

歴史家の視点から国際情勢・時事問題などについて語るブログ

教育の体罰とスポーツの体罰の違い

 最近、学校の部活動やスポーツ界での体罰に関する事件が、連日の如くに報じられるようになりました。こうした中、体罰への過剰反応が、学校における教師の萎縮を招き、かえって、校内暴力が野放しになるのではないか、と心配する声もあるようです。

 この問題、”罰”とは何か、という観点からのアプローチが必要なようです。校内暴力や校内のルール違反は、他者に危害を加えたり、校内の秩序を破壊する加害行為です。こうした行為に対しては、学校側は、何らかの対応措置を講じると共に、暴力をふるったり、秩序を壊した生徒に対して、何らかの罰を与える必要があります。例えば、他の生徒を殴るような暴力生徒が存在する場合には、教師の側も、力で暴力を制止せざるを得ず、その際に、思わず、”体罰”を加えてしまうことがあるかもしれません。こうした場合、この教師を暴力教師として処分すべきか、という問題が持ち上がりますが、多くの人々は、この教師を擁護するかもしれません。学校には、常に警察が常駐しているわけではありませんので、暴力を力で抑える役割は、教師がせざるを得ず、また、裁判にならない限り、暴力生徒は、罪にも問われず、罰をも受けずに見過ごされることになるからです。教育の現場における加害行為に対する罰については、体罰の是非を巡る議論は、当然に起きますし、容認論も根強いのです。
 一方、スポーツにおける体罰となりますと、校内暴力とは、かなり状況は違ってきます。第一に、暴力を最初に振うのは、指導者の側であり、生徒に落ち度がったとしますと、それは、指導通りに動くことができなかったことです。スポーツの場合には、意識して頑張ってもできないことがありますし、ましてや、他人を害しているわけでもありません。こうした場合には、体罰を与えることは、たとえ相手のためを思って手を挙げたとしても、指導者の立場を濫用した(パワハラ…)、一方的な暴力となってしまうのではないでしょうか。

 フセイン時代のイラクや現在の北朝鮮といった独裁国家では、スポーツ選手が国際試合で負けると、命をも失いかねない、恐ろしい”罰”が待ち受けていたそうです。少なくともスポーツは、”体罰”という恐怖心を以って指導すべきとは、思えないのです。

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