時事随想抄

歴史家の視点から国際情勢・時事問題などについて語るブログ

外交談話方式のリスク-中韓の頸木

 先日、元米国駐日大使であったシーファー氏が、河野談話の見直しについて、”アメリカの国益を損ねる”と述べ、反対したとするニュースが報じられていました。”慰安婦”については、アメリカは、”債務奴隷説”で批判しているようですが、そろそろ、外交談話の方式こそ、見直すべきなのではないかと思うのです。

 日本国政府が、外交談話を発表する形式は、村山政権に始まります。戦後50周年の節目の年に当たる平成7年の8月15日に、村山談話は発表されましたが、村山元首相が、長らく社会党の領袖であったため、談話は、首相の”歴史認識”が色濃く出た内容となったのです。考えても見ますと、敢えて、外交談話を作成して公表する必要はあったのでしょうか。アメリカ大統領による外交ドクトリンは、現政権における外交方針を公表するものですが、何故か、日本国の外交談話は、現在の日本国の外交ではなく、過去の”歴史認識”を語っています。あくまでも”歴史認識”ですので、歴史的な事実に基づくものではなく、先の戦争で、”日本国は悪いことをした”とする自虐史観を再確認しているのです。この”歴史認識”は、中国や韓国、あるいは、北朝鮮の”歴史認識”に合致するものでなくてはならず、周辺諸国歴史認識に反しようものなら、徹底的に批判が浴びせられる構図が出来上がっています。つまり、外交談話を発表する、あるいは、その継承の有無を明らかにすることは、相手国に攻撃材料を与えると共に、常に、周辺諸国から、”歴史認識”の再確認を迫られる機会となるのです。清朝冊封体制では、属国は、宗主国に対して誓いを立てるという制度があったようですが、政権交代のたびに、”歴史認識”の継承が確認行事として慣例化されたのでは、中韓の頸木に繋がれているようなものです。

 新たな談話を発表する方法もありますが、あるいは、こうした外交談話方式そのものを放棄するのも、一つの道ではないかと思うのです。中国や韓国の頸木を振りほどくために。

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