時事随想抄

歴史家の視点から国際情勢・時事問題などについて語るブログ

「奴国」は鏡文化圏、「投馬国」は銅鐸文化圏、「狗奴国」は銅矛・銅剣文化圏

 今日は、古代・中世史研究家の倉西裕子が記事を書かせていただきます。前回は、弥生時代における「奴国」・「投馬国」・「狗奴国」の3大国の出現と、畿内の銅鏡文化圏(九州では糸島半島博多湾沿岸のみは鏡文化)、九州の銅矛・銅剣文化圏、出雲・北陸・東海の銅鐸文化圏の3つの文化圏との関係についてお話させていただきました。では、3大国は、3文化圏のそれぞれどこのことなのでしょうか。

 結論から述べますと、「奴国」が銅鏡文化圏、「狗奴国」が銅矛・銅剣文化圏、そして、「投馬国」が銅鐸文化圏であると考えることができます。

 まず、「奴国」につきましては、前回のブログ記事で述べましたように、九州北部の糸島半島から博多湾沿岸に所在した「伊都国」と「奴国」(両国は鏡が祭具)は、ある時期に、その中心を大和(畿内)に移し、投馬国と統合することで「女王国」となり、畿内を中心に鏡文化を展開させていったと想定することができます。すなわち、「奴国」の当初の所在地は、九州北部の糸島半島から博多湾沿岸にかけての地域であったと考えられます。

 「狗奴国」は、銅矛・銅剣文化圏の九州中南部地域となり、その中心地は、日向と考えられます。「狗奴国」は、「奴国」から分派した国のようですが、「魏志倭人伝」によりますと、3世紀前半には、卑弥呼の「女王国(奴国+投馬国)」と対立して戦争にいたっています。「女王国」は、魏朝と同盟しておりましたので、「狗奴国」は、あるいは魏と対立していた呉朝と同盟していたのかもしれません。考古学的にも、日向(宮崎県)からは、呉鏡が出土しています。

 そして「投馬国」は、銅鐸の分布する日本海側地方から中部・東海地方にかけての地域であって、その中心は出雲でしょう。7万戸という大きな戸数は、投馬国の範囲が東日本にも及ぶものであった可能性を示しています。

 「奴国」の鏡、「狗奴国」の鉾・剣、「投馬国」の銅鐸との関係、そしてその当初の所在地との関係は、三種の神器とも関係しているようです。天皇の祖、すなわち皇孫たる「ににぎの尊」の本当の降臨地は何処であるのかをめぐっては、記紀神話から3つの説が浮かび上がり、研究史上、謎とされてまいりました。ひとつは、『古事記』の「韓国に向」う場所、『日本書紀』の「第一の一書」の「筑紫の日向の高千穂(筑紫は九州北部)」という表現から、糸島半島博多湾沿岸説です。もう一つは、葦原中つ国(出雲)を平定した後に降ったのだから、出雲であろうという出雲説です。そして、もう一つが、『日本書紀』の「本書」に「日向の襲の高千穂峯」、すなわち日向と書いてあるのだから日向であろうという日向説です。この3説が、「奴国」、「狗奴国」、「投馬国」の中心地であることは、言うまでもありません。


(次回に続く)。