時事随想抄

歴史家の視点から国際情勢・時事問題などについて語るブログ

2世紀前半に「奴国」から分派した「狗奴国」

 今日は、古代・中世史研究家の倉西裕子が記事を書かせていただきます。前回は、2世紀後半頃に発生した「奴国(伊都国+奴国)」における内部対立が、「奴国」、「狗奴国」、「投馬国」という3大国を出現させるとともに、「倭国大乱」へと繋がったと推論できること、そしてその対立軸が、男子を王となすべきか、それとも女子を王となすべきかをめぐるものであった可能性についてお話いたしました。

 では、その内部対立の実情は、どのようなものであったのでしょうか。そのヒントは、「奴国(伊都国+奴国)」の祭具、鏡にあるようです。

 「奴国」、「狗奴国」、「投馬国」の3ヶ国は「伊都国」から分派して成立した点、ならびに「伊都国」と「奴国」の祭具は、鏡である点については既に述べました。内部対立との関係で、特に注目に値することは、一口に鏡といいましても、文様において、方格規矩鏡から内向花紋鏡への変遷がみられることです。

 岡村秀典氏の漢鏡編年によると(『三角縁神獣鏡の時代』吉川弘文館、1999年)、直線によって文様が構成される幾何学文様の方格規矩鏡は、漢鏡4期から漢鏡6期まで、すなわち紀元前一世紀から紀元後2世紀前半に流行っていた鏡です。すなわち、「伊都国」もしくは、「奴国(伊都国+奴国)」が男子王を立てて、倭諸国の盟主となっていた時代に、祭具として用いられていた鏡が、方格規矩鏡なのです。

 しかし、内向花文鏡という曲線によって文様が構成される日本独自の文様の鏡が、2世紀後半から方格規矩鏡にとってかわって、鏡の文様の主流となってゆきます。天照大御神を象徴する伊勢神宮の「八たの鏡」は、内向花文鏡ではないか、と推測されています。

 すなわち、方格規矩鏡は男子王の時代の祭具、内向花文鏡は女子王の時代の祭具という特徴を想定できるのです。

 おそらく「奴国(伊都国+奴国)」の内部において、2世紀前半頃に男子王を立てるべきか女子王を立てるべきかをめぐって対立が発生し、男子王を立てるべきとするグループが、権力闘争に敗れ、「奴国(伊都国+奴国)」を去ったのでしよう。

 しかし、敗れた側の男子王は、早々に再起を図ったようです。九州中・南部域にあった倭諸国を、「奴国(伊都国+奴国)」から分離・独立させて、これらの諸国を再統合したようなのです。その国が、「狗奴国」ではなかったのではないでしょうか。したがいまして、九州中・南部の倭諸国を失った「奴国(伊都国+奴国)」は当然ながら黙っておらず、「狗奴国」との間で戦争が勃発したと考えられます。これが、「倭国大乱」の一様相であったと仮定できるのです。

 「魏志倭人伝」の「倭女王卑彌呼輿狗奴國男王卑彌弓呼素不和(倭女王の卑弥呼と狗奴国王の男子王、卑弥弓呼とは、もとから不和であった)」とする文章は、このような経緯を表現しているのかもしれません。

(次回に続く)。