時事随想抄

歴史家の視点から国際情勢・時事問題などについて語るブログ

竹島は日本の領土-明治16年の通達の存在

 昨日、ネット上で、竹島の領有に関する明治政府の対応をつぶさに調べ、報告されておられるブログを発見いたしました。その記事によりますと、明治16年(1883年)に、政府が発した通達があり、この通達こそが、実は、明治10年(1877年)の太政官指令よりも、はるかに重要であるそうです。この通達を踏まえますと、竹島については、以下の経緯を描くことができます。

 江戸期において、李氏朝鮮との間で鬱陵島をめぐる紛争が発生した際に、日朝間で外交交渉の場が設けられ、国境線を画定したわけではないものの、江戸幕府は、鬱陵島への日本人の渡航は禁じる措置を取りました。この際、李氏朝鮮側も空島政策をとり、鬱陵島は、1882年まで無人島となったのです(もっとも、密航者は存在したらしい…)。竹島(現在の鬱陵島)一件は、あくまでも、鬱陵島をめぐる問題であり、現在の竹島は、日朝交渉のテーブルにも上らなかったのです。明治維新を迎え、日本人が鬱陵島渡航するようになったため、島根県が、明治政府にお伺いを立てた際の返答が、明治10年太政官指令です。ところが、当時、測量の誤りから、鬱陵島や現在の竹島の位置が混乱しており、明治政府は、一先ず、”竹島外一島の件は本邦と関係なしと心得るべし”と、曖昧な表現で返答しております。そして、その後、正確な測量に基づく位置関係が判明し、誤認を訂正する形で、明治16年の通達が出されるのです。この通達には、元禄時代の交渉の結果を踏襲するのは、鬱陵島1島のみと明記されているそうです。韓国側は、明治10年太政官指令をもって、日本国は、竹島の領有を放棄したと強弁しておりますが、日本国は、明治16年に、江戸時代の交渉結果を尊重する旨の立場を全国に通達したのであり、現在の竹島の領有権の変動は一切ないのです。1905年の島根県隠岐島編入も、再確認に過ぎないのです。仮に、韓国が主張しているように、竹島の領有が、日本国による”侵略”の始まりであるならば、江戸時代の措置は、渡航禁止に過ぎないのですから、明治政府は、鬱陵島の領有権をも主張したのではないでしょうか。この一件に、明治政府が、江戸時代の合意を尊重する姿勢が、むしろ伺えるのです。

 この事実は、韓国側が、領有権を主張するに際して、しばしば引き合いに出している大韓帝国時代の「勅令四十一号(1900年)」が、全く根拠とならないことをも示しています(もっとも、石島と表記されている時点で、領有の証拠とはならない…)。竹島については、かくも確かな証拠が揃っているのですから(サンフランシスコ講和条約でも確認…)、韓国は、竹島侵略こそ認め、早期に日本国に返還すべきと思うのです。

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