時事随想抄

歴史家の視点から国際情勢・時事問題などについて語るブログ

韓国政府竹島公式サイトの真偽パート5

 韓国政府の竹島公式サイトのQ5は、「獨島と関連し、安龍福の活動にはどのような意味がありますか。」という設問です。この問いに対する回答にも、虚偽の記載があります。

 第1に、韓国のサイトでは、安龍福の二度の訪日は、”「鬱陵島争界」の過程で、鬱陵島と獨島の帰属が明らかになったという点で意味があります”と回答していますが、江戸幕府李氏朝鮮の間の日朝交渉(”鬱陵島争界”)の発端となったのは、1693年の第一回目の訪日によるものです。江戸幕府は、1696年1月に竹島鬱陵島)の渡海禁止を決定しており、安龍福の二度目の訪日は、同年の6月です。安龍福が、竹島鬱陵島に加えて、松島=于山の説を唱えるのは、この第二回目の訪日に際しての事であり、それは、既に、日朝間で決着がついた後の事なのです(ただし、朝鮮側への正式の通達は、同年10月)。このため、交渉過程を伝える朝鮮側の史料である「粛宗実録」にも、竹島鬱陵島)の名はあっても松島(竹島)の名は出てこないのです。つまり、韓国サイト述べるように、現竹島の帰属が明らかになったわけではありません。

 第2に、安龍福は、第二回目の訪日で、松島=于山説を持ち出しますが、この際の安の供述は、日本側の史料にも、韓国側の史料にも記録されています。ただし、安の供述には、朝鮮の正式の使者を自称したり、第一回目の訪日で、関白(将軍)から鬱陵島と子山島(于山島)を朝鮮領とした書契を拝領したといった、明らかな虚偽がありました。安龍福の一行は、8月に朝鮮に送還されており、翌1697年2月に対馬藩が安について朝鮮側に確認したところ、口頭での返答に次いで、3月には、文章にて「呈書のことについては誠に妄作の罪あり」、つまり、安の供述は虚偽として処罰したことを通告しています。

 第3に、安龍福が唱えた松島=于山説については、安の個人的な思い込みによるものに過ぎません。日本側に残る『因幡志』によれば、安は、この説を唱えるに際して、八道の図(Q4で紹介した『東国興地勝覧』の「八道総図」)を根拠として見せたそうですが、八道の図に描かれている于山島は、鬱陵島よりも西側に位置しており、架空の島、あるいは、竹嶼(竹島とは別の鬱陵島のすぐ隣の附属島)です。

 第4に、韓国のサイトでは、八道の内、「この(江原道)道内に竹島(鬱陵島)、松島(獨島)がある。」と記した日本国の『元禄九丙子年朝鮮舟着岸一巻之覚書』を掲載していますが、これも、日本側が、安の言い分を調書として記録したに過ぎません。そして、韓国サイトは、この文書を、『肅宗実録』の内容を裏付けるものとしていますが、『肅宗実録』でも、子山島の名は、二度目の訪日の後に帰国した安の供述の一部として収録されているのです。”于山(子山)”という文字が書かれていても、それは、松島(竹島)を朝鮮の領有と認めたものではないのです。

 以上の点から、Q5の韓国側の回答は、17世紀の安龍福の虚偽に21世紀の虚偽を重ねたものであることが分かります。民間人、かつ、犯罪者でもある安龍福の行動は、歴史的にも、法的にも、領土領有の何らの根拠とはならないのです。

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