時事随想抄

歴史家の視点から国際情勢・時事問題などについて語るブログ

神功紀において足りない120年分の紀年はどこへ行ってしまったのか

 今日は、古代・中世史研究家の倉西裕子が記事を書かせていただきます。今回のテーマは、日本書紀紀年法のプラス・マイナス120年構想についてです。

 前回の記事(11月26日)にて、『日本書紀』の編年には、国内外の史料との間に不整合や矛盾が散見されることが、『日本書紀』の史書としての価値を著しく損ねていると述べました。表面的には矛盾として認識されてしまうこのような不整合の最たる箇所は、『日本書紀』巻9神功紀です。

 『日本書紀』には、海外の史書からの引用文、ならびに海外事情についての記述は、ほんの僅かしかありません。神功紀に「魏志倭人伝」からの引用文が載せられているのが、その最初で、この引用文があることによって、神功39年は、西暦239年に相当していることを確かめることができます。

 したがいまして、69年間を扱う神功紀は、神功元年の西暦201年から神功69年の西暦269年までの69年間を扱っていることになり、何ら編年問題はないかのようなのですが、以下の理由によって、それがそうとも言えないのです。

 神功55年条には、百済近肖古王が薨じたとする記述があります。朝鮮半島に残る『三国史記』「百済本紀」によれば、近肖古王の薨年は西暦375年となります。同じく、神功64年に見える枕流王の即位につきましても、西暦384年に相当してきます。このような点からは、神功元年は西暦321年であって、その末年は、西暦389年ということになってきます。

 神功紀は、3世紀と4世紀のどちらを扱っているのか、この点をめぐりましては、実証主義史学が導入された明治以降の史学界におきましては、3世紀説と4世紀説に2分する論争となってきました。

 しかし、このような不整合は、‘巻9神功紀は、西暦201年から西暦389年までの189年間を扱っているにもかかわらず、配られている紀年数は69年である’、と考えることによって氷解します。すなわち、神功紀の編年は、以下の数式によって表すことのできる構造となっているのです。


   69年(紀年数)―189年(実際の経過年数:西暦201~389年)=-120


 すなわち、本来、神功紀には、189年分の紀年を配られるべきが、69年分のみとなっており、120年分の紀年が足りていないのです。

 では、その足りていない紀年は、どこに行ってしまったのでしょうか。

(続く)