時事随想抄

歴史家の視点から国際情勢・時事問題などについて語るブログ

『日本書紀』のプラス・マイナス120年構想

 今日は、古代・中世史研究家の倉西裕子が記事を書かせていただきます。今回のテーマは、日本書紀紀年法のプラス・マイナス120年構想についてです。

 前回の記事(12月3日)にて、『日本書紀』の巻9神功紀の編年につきまして、「69年(紀年数)―189年(実際の経過年数:西暦201~389年)=-120」という等式が成り立っていると述べました。すなわち神功紀は、西暦201年から西暦389年までの189年間を扱っているにもかかわらず、配られている紀年数は、69年分であって、120年分の紀年が足りていないのです。では、その足りていない120年分の紀年は、どこへ行ったのでしょうか。

 この点に関しましては、『日本書紀』の雄略5年条に、百済武寧王の出生譚についての記述が見えることが解決の糸口を提供しているようです。

 伝武寧王墓出土の墓誌に「寧東大将軍百濟斯麻王年六十二歳癸卯年五月丙戌朔七日壬辰崩到乙巳年八月癸酉朔十二日甲申安厝登冠大墓立志如左」とあることから、没年の癸卯年の西暦五二三年から斯麻王(武寧王)の享年の62歳を引くと、雄略5年は、西暦461年となります。神功末年の西暦389年の翌年となる応神元年は、西暦390年となりますので、応神元年の西暦390年から雄略5年の西暦461年までは、72年が経過していることになります。

 ところが、巻10応神紀の紀年数は41年、空位の紀年が2年、巻11仁徳紀の紀年数は87年、巻12履中紀の紀年数は6年、反正紀の紀年数は5年、空位の紀年数が1年、巻13允恭紀の紀年数は42年、安康紀の紀年数は3年、巻14雄略元年から5年までの紀年数が5年となっており、合計しますと、192年分の紀年数が配られているのです(41+2+87+6+5+1+42+3+5=192)。

 すなわち、応神元年から雄略5年までの間は、実際の経過年数は、72年であるにもかかわらず、配られている紀年数は192年分であり、以下の等式に表せますように、120年分の紀年が超過しているのです。

    應神元年~雄略五年: 192(紀年数)―72(実際の経過年数)=+120

 ここで、神功紀における120年分の足りない紀年数は、どこへ行ったのかという設問を思い起こしていただきたいと思います。神功紀において足りていない120年分の紀年の問題は、応神元年から雄略5年までの間、120年分の紀年を実際の経過年数に加えることで、解決されているのです。したがいまして、以下のプラス・マイナス120年構想が『日本書紀』の編年には設定されていると結論付けることができるでしょう。


    神功元年~神功六十九年:69(紀年数)―189(実際の経過年数)=―120
    應神元年~雄略五年: 192(紀年数)―72(実際の経過年数)=+120



(続く)