時事随想抄

歴史家の視点から国際情勢・時事問題などについて語るブログ

『日本書紀』の讖緯暦運説

 今日は、古代・中世史研究家の倉西裕子が記事を書かせていただきます。今回のテーマは、日本書紀紀年法のプラス・マイナス120年構想についてです。本ブログにおける前回の記事(12月10日付)にて、『日本書紀』の神功元年の西暦201年から雄略5年の西暦461年までの間には、以下のプラス・マイナス120年構想が成り立っていることを説明いたしました。



 神功元(西暦201)年~神功六十九(西暦389)年:69(紀年数)―189(実際の経過年数)=―120
應神元(西暦390)年~雄略五(西暦461)年: 192(紀年数)―72(実際の経過年数)=+120


 では、なぜ、日本書紀紀年法においては、120年が重視されているのでしょうか。これには、讖緯暦運説がかかわっているようなのです。

 一定の年数ごとに政治的・社会的な変革が起こるとする預言は、古来、「讖緯暦運説」と呼ばれております。数ある讖緯暦運説のなかでも、辛酉革命説が、日本書紀紀年法において用いられていることは、よく知られています。

 干支(えと)といったらわかりやすいかと思いますが、60年を一周期とする「干支紀年法」と称される年代表記があります。60年に一度めぐってくる辛酉年は「小変」と称されており、政治的・社会的変革があるとされ、60×21の1,260年に一度めぐってくる辛酉年は、「大変」と称され、大規模な政治的・社会的変革があるとされているのです。

日本書紀』におきましては、推古9年の西暦601年、すなわち「聖徳太子」として知られる厩戸皇子が、摂政宮の斑鳩宮を興した年代から、この60×21の1,260年を遡った紀元前660年に神武元年は位置付けられているのです。

120年は、60×2ですので、プラス・マイナス120年構想は、60年を周期とする讖緯暦運説と関連していると考えることができるのです。

(続く)