時事随想抄

歴史家の視点から国際情勢・時事問題などについて語るブログ

『日本書紀』巻9神功紀は西暦201年から389年までの189年間を扱っている

 今年も、倉西雅子のブログ『時事随想抄』にて、古代・中世史研究家の倉西裕子が、時々、記事を書かせていただきます。どうぞよろしくお願い申し上げます。さて、今回のテーマは、昨年に引き続き日本書紀紀年法のプラス・マイナス120年構想についてです。

日本書紀』には、神功元年の西暦201年から雄略5年の西暦461年にかけて、プラス・マイナス120年構想が設定されておりますことは、本ブログでは、2013年12月3日付記事、12月10日付記事、および12月17日付記事の3回にわたって述べてまいりました。何度も繰り返すようですが、プラス・マイナス120年構想は、以下のような式において表すことのできる構想となります。

 神功元(西暦201)年~神功六十九(西暦389)年:69(紀年数)―189(実際の経過年数)=―120
應神元(西暦390)年~雄略五(西暦461)年: 192(紀年数)―72(実際の経過年数)=+120

今回は、マイナス問題について、注目してみましょう。この式によって示されますように、『日本書紀』巻9神功紀は、西暦201年から西暦389年までの189年間を扱っているのですが、神功紀に配られている紀年数は、69年分であり120年分の紀年が足りていません。では、神功紀が、実際には、189年という長期間を扱っているという証拠はあるのでしょうか。

まず、第一に、『日本書紀』が、「魏志倭人伝」や『晋書』を引用することで、3世紀前半に我が国にあった「女王国」の女王・卑弥呼と、その後継者となった壹与という二人の女王を‘神功皇后’として扱っていることによって、神功紀が長期間を扱っていることが読者に示唆されていると言うことができます。一人の人物が189年間も摂政として在位し続けていたということは実際にはありえませんので、複数の女性を‘神功皇后’として扱うことによって、神功紀が、実際には長期間を扱っているということを示そうとしたのでしょう。

第二に、神功紀に百済王の薨去と即位についての記述が載せられていることです。特に、百済国の枕流王の2年の西暦385年に、枕流王が薨去して阿花王が即位すると、叔父の辰斯が位を奪って即位したという事件は、国際的にも知れ渡っていたようですので、この事件が神功65年条に載せられていることによって、読者の多くが、神功紀は、4世紀後半も扱っていると認識したはずなのです。

したがいまして、『日本書紀』の読者の多くは、述べてまいりました第一点と第二点とを考えあわせてみますと、神功紀は、西暦201年から西暦389年までの長期間を扱っている、ということに気付いたはずなのです。

(続く)