時事随想抄

歴史家の視点から国際情勢・時事問題などについて語るブログ

神功紀の編年構造が解明されたことの意義

 今日は、古代・中世史研究家の倉西裕子が記事を書かせていただきます。今回のテーマは、日本書紀紀年法のプラス・マイナス120年構想についてです。前回の1月7日付の本ブログ記事に引き続きまして、神功紀のマイナス部分について説明してまいります。

 『日本書紀』におきまして、表面的には69年間となっている巻9神功紀が、実際には西暦201年から西暦389年までの189年間を扱っておりますことは、前回述べましたように、「魏志倭人伝」に載る西暦239年の出来事についての文章が、神功39年条においてこの年の出来事として引用されていること、そして、西暦385年に発生した百済王家における王位簒奪事件についての記事が、神功65年条に載せられていることによって、明らかです。

 あたかも‘コロンブスの卵’のように、こうした神功紀の編年は、あたりまえと言えばあたりまえの事実なのですが、研究史上、神功紀が189年間を扱っているという私の説は、これまで提起されてこなかった説なのです。

 江戸時代に本居宣長は、巻9神功紀か巻10応神紀のあたりで干支2運分の120年あまり時代が繰り上げられていると述べ、神功紀か応神紀のあたりで、『日本書紀』の編年とそれに相当する実年代との間に、120年のズレが生じていることを指摘しました。しかしながら、宣長は、これをもって『日本書紀』の編年は出鱈目であると信じ、『日本書紀』の研究を止めて、『古事記』研究に没頭することになります(その結果、本居宣長は『古事記伝』44巻という大著を著します)。

 明治時代となって実証主義史学が導入されますと、東洋史学者の那珂通世が本居宣長の指摘を踏まえて、「上代年紀考」において、『日本書紀』の神功紀は、史実としては4世紀を扱っているにもかかわらず、120年繰り上げて神功紀を3世紀代に位置付けたとする説を提起するものとなりました。すなわち、『日本書紀』の巻末年の巻30持統紀の持統11年の西暦697年から、『日本書紀』の編年のとおりに各巻の紀年を遡ってゆきますと、神功紀の神功元年は西暦201年となりますので、『日本書紀』の編纂者は、4世紀の出来事を、3世紀の出来事として位置付けたと那珂氏は主張したのです。

 その一方で、神功紀には「魏志倭人伝」の記述が見えることなどから、『日本書紀』の編年のとおりに、神功紀は3世紀を扱っていると主張する3世紀論者もあり、那珂氏をはじめとした4世紀論者と、3世紀論者の間で、長く議論の平行線がたどられてきたのです。

 したがいまして、3世紀と4世紀の両方、すなわち189年間を神功紀は扱っているという私の説(倉西説)は、これまで提起されてこなかった説であり、189年間を扱っているという視点から、神功紀を検証しなおすことで、我が国の3世紀と4世紀の歴史的な経緯が浮かび上がってくる可能性が開けてきたと言うことができるのです。

(続く)