時事随想抄

歴史家の視点から国際情勢・時事問題などについて語るブログ

伝天武・持統天皇合葬陵の八角形の意味・パート2

今日は、古代・中世史研究家の倉西裕子が記事を書かせていただきます。

法隆寺の東院伽藍の金堂の「夢殿」と称される八角形の御堂の中央には、八角形の厨子があり、その厨子のなかで1,000年以上にわたって封印されておりました救世観音像のモデルが高向王(たかむこ王)であることは、2月24日付の本ブログの記事において述べました(詳しくは、拙著『救世観音像 封印の謎』(白水社・2007年)をご参照ください)。

救世観音像は、聖徳太子をモデルとしているとされていますが、仏像の様式学から、推古朝よりもやや時代が下がると考えられ、モデルは聖徳太子ではなく、高向王である可能性が高いのです。用明天皇は、聖徳太子の父ですので、用明天皇の孫である高向王と聖徳太子との近い系譜的関係が、救世観音像が、聖徳太子をモデルとするという伝承を生んだのでしょう(高向王は、用明天皇の子であるとする伝もあります。仮に子であるのならば、高向王は聖徳太子の兄弟ということになります)。

では、高向王とは、いったいどのような人物なのでしょうか。仏像とはいえ、八角堂のなかで、いわば、‘封印’されていたこの人物と、天武・持統合葬墓が八角形であることとの間には、何らかの関係があるのでしょうか。まずは、高向王について、調べてみなくてはなりません。

日本書紀』巻第26斉明紀は、「天豊財重日足姫天皇(斉明女帝)は、はじめは橘豊日天皇用明天皇)の孫の高向王に嫁がれて、漢皇子をもうけられ、後に、息長足廣額天皇舒明天皇)に嫁がれた」とある一文にはじまります。この一文が、『日本書紀』が高向王について記す最初で最後の一文なのです。

斉明女帝は、高向王と離婚して、舒明天皇に嫁ぎ、天智天皇、間人皇后(孝徳天皇の皇后)、天武天皇の3子をもうけています。このような系譜的関係は、高向王の存在が、孝徳朝・斉明朝・天智朝・天武朝・持統朝という7世紀後半の激動の時代に大きな影響を与えていた可能性を示しています。

その理由は、この系譜的関係のもたらした政治状況として、物部戦争と乙巳の変によってそれぞれ滅んだはずの物部氏崇神派)と蘇我氏(崇仏派)との対立関係があるからです。詳しくは、次回以降に述べますが、国際情勢とも絡んで、水面下において温存されていた両派の政治的駆け引きは続いていおり、高向王には、政局に影響を与えるだけの余地があったと考えられるのです。


(続く)