時事随想抄

歴史家の視点から国際情勢・時事問題などについて語るブログ

謀略史観から第二次世界大戦を眺めてみれば

 今日は、古代・中世史研究家の倉西裕子が記事を書かせていただきます。
 
第二次世界大戦ほど、不可思議な戦争はありません。
 
第二次世界大戦は、国々の利害対立を解決するための‘最後の外交的手段’としてではなく、両陣営が‘人類にとっての普遍的価値の確立’や、‘理想的世界の実現’を目指して戦ったという意味におきまして、‘啓蒙思想的・黙示思想的戦争’であると言うことができます。しかしながら、それ故に、もっとも被害が大きくなった戦争であるとも言うことができるのです
 
『聖書』黙示録には、人類にとっての理想的社会である‘千年王国’の時代が、やがて到来すると記されております。あたかも、‘千年王国’がいずれであるのかを競うかのように、世界のすべての人々の基本的人権の保障などといった普遍的価値の実現や、理想的世界の実現’をめぐってのそれぞれの主張を‘戦争の大義’としたがゆえに、第二次世界大戦は、連合国側と枢軸国側とが、双方ともに、死力を尽くして戦ってしまった戦争なのです。
 
例えば、米国は民主主義・自由主義社会の実現、ドイツはゲルマン民族による世界の運営(ドイツ人は、本気で、ゲルマン民族によって世界が管理・運営されることが、人類にとっての理想の社会であると信じていました)、そして、我が国は八紘一宇大東亜共栄圏の確立を掲げたように、それぞれが、‘これこそが人類にとっての理想の世界’であると信じ込んで、その実現のために戦争に訴えていたということになるのでしょう。
 
しかも、互いに祖国防衛戦争であるという意識もありました。両陣営の多くの兵士たちは、このような‘戦争の大義’があったがゆえに、意気揚々と戦地に赴いたのです。すなわち、‘この戦争に参加することは、善か悪か’といった判断におきまして、両陣営の人々が、ともに‘善’と捉えてしまい、いわゆる‘うしろめたさ’が無かったことが、双方ともに大きな被害が生じるという最悪の結果を招いてしまったのです。
 
このような戦争の目的を踏まえますと、まずもって、理想の社会の如何の問題を、戦争で解決するという発想自体が、奇妙なことであったのではないか、と言うことができます。人類にとってのよりよい社会の実現が、双方の目標でしたならば、理想的社会とは、どのような社会であるのかを議論したほうが、よほどよい結論を得ることができます。議論を通しまして、互いが主張する理想的社会の欠点も見えてくることになるのですから。
 
また、そもそも、戦争の勝敗によって、理想的社会が決まるわけでもありません。例えば、より獰猛なメンタリティーの側が、その獰猛さゆえに勝者となってしまいますと、実現される世界は、悲惨な世界となってしまうのですから。もう少し、理性的に考えれば、第二次世界大戦は、防げた戦争であったのかもしれないのです。
 
では、なぜ、あれだけの世界大戦となってしまったのでしょうか。本当は、国々の利害対立を解決するための‘最後の外交的手段’であったのでしょうか。そして、そこには、謀略者の存在はあったのでしょうか。
 
(続く)
 
よろしければ、クリックをお願い申し上げます。
 
イメージ 1