時事随想抄

歴史家の視点から国際情勢・時事問題などについて語るブログ

「進化論」から見えてくる人類共通の脅威:アダムとイブの伝説は ‘人類から神様への進化evolution from human to god’の第一歩を意味する

今日は、古代・中世史研究家の倉西裕子が記事を書かせていただきます。本ブログにて、昨年末、進化論the theory of evolutionと言いながら、実際には、所謂‘退化論the theory of degeneration’を唱えている人々がいることを指摘させていただきました(2014年12月24日付)。
 
よくよく考えてみますと、『聖書』の記述の解釈に、こうした問題が発生している原因の一つがあるようなのです。
 
『聖書』「創世記」では、はじめの人類であるアダムとイブは、「エデンの東の園a garden eastward in Eden」という場所に住んでおります。そこで、アダムとイブは、お洋服も着ておらず、何も思考せず、何の努力もせず、そこにある木々の果物などを食することで安逸に暮らしております。そこへ、ヘビが現れ、神様が、唯一、食することを禁じている‘知恵の果実the tree of knowledge of good and evil’であるリンゴを食することを二人に勧めます。リンゴを食したアダムとイブは、善悪の判断がつくようになるとともに、エデンの東の園から追放され、自らの糧を、自らの努力によって得なければならなくなるのです。このような『聖書』の伝説によりまして、歴史上、エデンの東の園は、あたかも、人類にとっての理想の世界であるかのような解釈が生じております。
 
しかしながら、よくよく考えてみますと、エデンの東の園は、本当に、人類にとっての理想の世界なのでしょうか。‘生き甲斐’と言えるような自らの人生の意義や意味、さらには、人生における目的やよろこびを考えてみますと、私たちの多くにとりまして、エデンの東の園は、理想どころか、‘地獄’であるとさえ、認識されてきます(アダムとイブは、知恵の実を食するまでは、盲目でもあります)。
 
エデンの東の園には、勉強して知識を得るよろこびも、何かをつくったり、発見する楽しみも、ファッションの楽しみも、思索する楽しみも、そして、働くことのよろこびも何もないのです。すなわち、人類の行き着く先の理想として、エデンの東の園を設定してしまいますと、原始時代に戻ること、すなわち、‘退化degeneration’となってしまうのです。
 
では、なぜ、『聖書』は、エデンの東の園からのアダムとイブの追放というお話を載せているのでしょうか。『聖書』「創世記」を読んでみますと、神様は、さっそく、自ら、お洋服をつくって、アダムとイブに着せております。そして、「人類は、我々の一員として、善悪を知るようになったAnd the Load said, Behold, the man is become as one of us, to know good and evil」と述べてもおります。
 
このような記述から、そもそも神様自身は、お洋服を着ており、善悪を判断する能力があったことがわかります。アダムとイブは、りんごを食することで、神様に一歩近づいたとも言うことができるのです。換言いたしますと、神様は、最初は、人類が神様のような存在とはならず、‘野獣’のようなままでよいと考えていたようなのですが、アダムとイブがりんごを食した時点で、人類に、一つの‘試みchallenge’を与えていることになるのです。すなわち、‘この世に、神々の世界のような世界を実現する’という実現するのが可能であるのか、不可能であるのか、神様でもわからないような課題を人類に与えていると理解することができるのです(おそらくは、神様は、’この世に、神々の世界のような世界を実現する’ためには、人類が苦難の道を経なければならないことを、ご存じであったのでしょう)。
 
このように考えますと、アダムとイブの伝説は、‘類人猿から人類の進化evolution from anthropoid ape to human’を意味しているのではなく、‘人類から神様への進化evolution from human to god’の第一歩、を意味しているのではないでしょうか。
 
(続く)
 
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