時事随想抄

歴史家の視点から国際情勢・時事問題などについて語るブログ

奇妙な空気が漂う「I AM KENJI 」運動

 『わたしはマララ』を著したマララ・ユスフザイさんは、女子教育の必要性を唱えたために、イスラム過激派の銃弾により瀕死の重傷を負いました。”わたしはシャルリー”もまた、12人もの社員を失ったシャルリー・エブド社襲撃事件の際に、テロリストに対する抗議の声として広まりました。ここにきて、日本国でも、イスラム国によって人質になっている後藤健二氏の釈放を求め、「I AM KENJI」を掲げる人々が現れているそうです。
 
 三者ともイスラム過激派の犠牲者ということでは共通してはいるのですが、「I AM KENJI」は、これまでの”私は○○”の運動とはいささか違いがあるように思えます。前二者は、命がけでテロリストと対峙した人々であり、テロに対する対決姿勢は明瞭です。ところが、「I AM KENJI」では、避難民の救援活動などに従事していたと報じられてはいるものの、後藤氏が、どの程度テロという非情な行為を憎み、テロリスト達と対決していたのか不明なのです。このため、この運動では、アンチ・テロリズムの色彩が薄く、ややもすれば、テロリストに対する非難の矛先をずらし、むしろ釈放を求めることで妥協を勧めているようにも感じられます。
 
 テロリストに対する抗議の意思を示すならば、イスラム国が湯川氏を殺害したと公表しているのですから、「I AM HARUNA」となるはずです。「I AM KENJI」運動には、どこか、奇妙な空気が漂っているのです。
 
 よろしければ、クリックをお願い申し上げます。