時事随想抄

歴史家の視点から国際情勢・時事問題などについて語るブログ

福知山線脱線事故で運転手の責任を問う理由

 昨日、10年前に発生した福知山線脱線事故について、運転手の責任が曖昧であるとする記事を掲載しましたが、本日は、何故、運転手の責任を問うべきなのか、その理由を説明したいと思います。

 事故を起こした運転手は既に亡くなっており、今となっては、責任の取りようもありません。しかしながら、100人を越える死者を数えた事故ですので、せめて、運転手の責任だけは確認しておきませんと、今後の事故再発に繋がらないのではないかと思うのです。報じられるところによりますと、運転手は、時刻表通りの運行を行うことができず、遅れを取り戻すために、制限速度を大幅に越える時速120キロものスピードで電車を走らせ、急カーブを曲がりきれずに脱線させたそうです。当運転手の運転ミスはこの時が初めてではなく、度重なるミスのために、次がない状態であったとも言います。そこで、時速120キロの運転となったそうですが、この時、運転手は、運転ミスよりも重大な判断ミスをしたことになります。致命的な判断ミスとは、自らの運転手としての職を守るために、乗客の命を危険に晒したことです。つまり、乗客の命を軽視し、自らの個人的な事情を優先させた利己的な判断が、この事故の原因なのです。責任感が備わっており、かつ、誠実であれば、運転手は、たとえ配置換えや退職を覚悟しても、乗客に電車の遅れを車内放送して謝罪すると共に、JR西日本の管制室に連絡し、他の電車の発着時刻を調整してもらったはずです。

 個人的な理由から事故を起こしても、全面的に会社の責任となれば、今後とも、乗客や他者の命を軽く見る運転手や操縦士が現れてもおかしくはありません。人の命を預かる職業の責任感や倫理観の向上のためにも、運転手の個人的な責任は、より強く問われてもよいのではないかと思うのです。

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