時事随想抄

歴史家の視点から国際情勢・時事問題などについて語るブログ

福知山線脱線事故から10年-曖昧にされてきた運転士の責任

 福知山線脱線事故から10年が過ぎ、事故現場の近くでは、犠牲者を悼んで追悼の慰霊式が行われたそうです。この事故によって、偶然に乗り合わせた多くの人々が命を落としたことを考えますと、まことに心が痛みます。

 今日のマスコミ報道では、当事故の被害について、”乗客106人と運転士が死亡”、あるいは、”乗客と運転士計107人が死亡”というような書き方をしております。運転士も犠牲者の一人のような書き方なのですが、大惨事を起こしたのが運転士であることは疑いようもないことです。ところが、事故発生当初から、事故の責任追及の矛先はJR西日本へと誘導され、運転手の責任に関しては、ほとんど不問に付されて今日に至っています。先日発生したドイツのジャーマンウィングスの墜落事故の報道と比較しますと、その差は歴然としております。後者の事故では、事故の原因となった副操縦士について、生い立ちや過去の言動など、事細かく報道されおりました。故意か否かの違いはありますが(福知山線の運転手も事故を予見できなかったとは言い切れない…)、脱線事故の運転手も墜落事故の副操縦士も、職業上の適性に欠けていたことにおいて共通しており、両事件とも、運転や操縦に責任を負うべき人の個人的な原因によって発生しています。一方、少なくとも、事故当時にあっては、JR西日本社やルフトハンザ社に違法行為があったわけでもないのです(JR西日本の場合、むしろ、温情が仇に…)。

 運転手に第一責任があるのですから、JR西日本に対する過度な糾弾は、バランスを欠いていますし、その不自然さが、この事故に対して釈然としない感覚をもたらしております。事故から10年経過したのを機に、冷静に、事故原因を見直し、個人の責任をより明確にした方が、事故の再発防止にも役立つのではないかと思うのです。

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