時事随想抄

歴史家の視点から国際情勢・時事問題などについて語るブログ

ヘイトスピーチ規制より虚偽情報規制を

 昨日の記事では、報道の自由について、簡単に整理してみました。本日は、ヘイトスピーチ規制と言論の自由との関係から記事を書くことにします。

 報道の自由とは、いわば、政府の検閲や統制から国民の知る権利を護るために存在する原則です。この原則は、報道機関に対して”束縛からの自由”を謳いつつも、本質的な意味においては国民一般の利益のためにありますので、情報を発信する側にも、本来の目的に即した制約が課せられます(虚偽の情報等で、国民を騙したり、誘導してはならない・・・等々)。それでは、言論の自由はどうでしょうか。言論の自由は、報道の自由のように、明確なる”束縛からの自由”とは言えないようです。そもそも、特定の事業者を介する出版や報道とは違い、政府が、個々人が発する日常での発言を全てチェックすることは不可能ですし、言論は、不可侵とされる内面の自由と不可分に結びついているからです(内面の自由程には絶対的ではないけれども、自由度は相当に高い…)。言論の自由は、基本的には、規制を設けてはならない分野であると言えます。

 仮に、制約を要するとしますと、それは、報道の自由と同じ状況において、何らかの実質的な”被害”が生じる場合です。報道機関と同様に、不特定多数の人々を対象に、情報を提供したり、自らの意見を述べたり、問題を提起する”言論”であり、かつ、それらが、他者の実質的な権利を害する場合に限られると考えられるのです。報道の自由においては、この他者は、およそ知る権利を持つ国民一般ですが、言論の自由の場合には、国民一般のみならず、個人や特定の集団が”被害”を訴える場合もあります。そこで、この文脈から、特定の民族に対する”ヘイトスピーチ”が問題となるのですが、情報、意見、問題提起…とは、常に誰の耳にも心地よいものばかりではありません。マイナス情報もありますし、正当な批判もありますし、社会悪を暴くものもあるのです。報道機関は、むしろ、この点に関しては、社会の木鐸としてこれらの役割を期待されています(故に、現在では、”報道しない自由”が問題視されている…)。そして、一般の個人や団体による言論であっても、公益に資し、問題の認識や解決に役立ち、社会正義の実現に適うものであれば、事実に基づくものである限り、規制を受けることはあってはならないことになります。

 以上からヘイトスピーチ規制の必要性を考えてみますと、ヘイトの感情は、主張の是非や正邪に関係なく起きるものですので、言論の自由への制約を課す根拠としては脆弱なのではないでしょうか。社会悪を暴きますと、一部から反発が起きるのも世の常ですので、ヘイトスピーチ規制は、逆に、国民の知る権利をも侵害し、悪の温床化を助長しかねないのです。規制を設けるとすれば、それは、虚偽の情報の流布のみに限定されるべきであり、ヘイトスピーチ規制よりも、報道機関を含めた虚偽情報規制の方がよほど理に適っています(虚偽情報流布の禁止と未確認情報に対する但し書きの義務付け…)。デモにおける口汚い罵り言葉の問題は、刑罰ではなく、公衆道徳の強化を以って対策を講じるべきではないかと思うのです。

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