時事随想抄

歴史家の視点から国際情勢・時事問題などについて語るブログ

百田氏発言が提起する報道の自由問題

 自民党の若手政治家の勉強会において、作家の百田氏が沖縄のマスコミ2社を批判する発言をしたところ、ネット上では、賛否両論の議論を呼んでおります。この一件、まずは、報道の自由なるものを整理しておく必要があるのではないかと思うのです。

 報道の自由とは、近代以降、政府によって情報が厳しく統制されてきた歴史に鑑みて保障されるに至った自由です。政府によって報道が統制されますと、国民は知るべき情報を得ることができず、為政者の思うがままに誘導される恐れがあるからです。内面の精神活動は限りなく自由ですが、報道の自由の場合は、あくまでも”束縛からの自由”なのです。このため、政府の介入に対する抗弁として用いる事はできるものの、マスコミが、無制限に、”如何様にも勝手に報道してもよい”というわけにはゆかず、制約がかかります。人の行動も原則としては自由でありながら、他者を害する行為は、犯罪として厳しく律せられるのと、基本的には同じ理屈です。ところが、”束縛からの自由”と”無制限な自由”をはき違えますと、マスコミは、報道の自由を根拠として、”報道しない自由”という名の自己規制を設けたり、自ら率先して情報を統制し、国民の知る権利を侵害したり、自らの目的のために世論を誘導しようとます。最悪の場合には、他国の情報工作機関に成り果てることも、ままあるのです。百田氏が沖縄のマスコミに対して吐いたとされる”暴言”は、おそらく、沖縄の新聞2社による独占的な偏向報道が、報道の自由の濫用に当たるとする批判なののでしょう。

 その一方で、報道界には、実に様々なプレスコードが存在していることはよく知られております。”報道の自由”を叫ぶマスコミ自身が、最もよく報道現場が”不自由”である現状を承知しているのです。そして、こうしたマスコミのが自らに課している”不自由さ”こそ、報道の自由を保障する至った政府による介入と同質の、排除されるべき”束縛”なのです。

 以上を整理しますと、マスコミは政府の介入からの自由は保障されているが、それは無制限な自由ではなく、情報をもみ消して国民の知る権利を侵害したり、情報操作で故意に判断を誤らせたり、自ら情報統制を敷くような報道をしていはならない、と言うことになるのではないでしょうか。この点を考慮しますと、マスコミもまた、反省すべき点があるのではないかと思うのです。

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