時事随想抄

歴史家の視点から国際情勢・時事問題などについて語るブログ

中国が導く狂気の時代

 安倍首相による70年談話の発表を控え、中国は、何としても自国の歴史認識に沿った内容となるよう、圧力をかけてきているようです。内政干渉も甚だしいのですが、中国による対日”侵略”批判を聞いておりますと、その精神性に危惧を覚えざるを得ません。

 何故ならば、中国は、法秩序の概念が欠如しているからです(神的視点、あるいは、客観的な視点の欠如でもある…)。国際社会における侵略の概念の登場は、国際法の整備と共にあります(”法なくして侵略なし”…)。それ以前は、クラウゼヴィッツが唱えたように、”戦争は外交の延長”であって、戦争そのものを罪として認識してはいませんでした。その理由は、徐々にではれ、人類が定住地を法的な国境線で囲むようになったのは、有史以降の事であり、人類の初期状態は、無主地状態であったと推測されるからです(どこが誰の土地か法的に確定されていない…)。このような状態にあっては、土地の取り合いが頻繁に生じ、他の集団の定住地を奪うことは、相手集団に対する法的な権利侵害行為とは見なさなかったのです。ですから、”侵略”の概念の登場は、自由の抑制と権利の保護を国際レベルにまで引き上げたことにおいて、人類の知的発展の証でもあります。このように、侵略が法秩序と不可分に結びついているとしますと、中国の対日侵略批判は、自己矛盾に他なりません。21世紀を迎えながら、実のところ、中国ほど、国際法を無視し、他国の権利侵害に罪の意識を感じていない国は他にないからです。”奪えるものは奪えるだけ奪う”が中国の基本方針なのでしょう。

 他国を”侵略国”としてなじる一方で、自らは、平然と他国の権利を踏みにじる中国が、批判の前提となる国際法を理解してるとも思えません。第二次世界大戦は、ヒトラーの登場もあって狂気の時代とも称されますが、中国が、理性や知性によって自己矛盾を把握しようとせず、国益の欲するままに他国に対する権利侵害を当然視しているとしますと、今日、再び狂気の時代が忍び寄っているように思えるのです。

 よろしければ、クリックをお願い申し上げます。