時事随想抄

歴史家の視点から国際情勢・時事問題などについて語るブログ

戦争に大義が二つあってはならないのか?

 先日公表されました70年談話報告書では、戦時にあって日本国が掲げた植民地解放の大義は、頭から否定されてしまいました。しかしながら、たとえ最後の局面で勝敗が軍事力によって決せられたとしても、敵味方となって戦う両者の大義が、時にして並び立つことも歴史にはあるのではないかと思うのです。

 第二次世界大戦を振り返りますと、連合国側は、ナチズムやファシズムといった全体主義を打倒し(日本国の場合は軍国主義?)、自由と民主主義を護るために先の大戦を戦い貫きました。一方、明治以来、植民地化されていたアジア諸国に対する忸怩たる思いが、先の大戦にあって、日本国をして開戦の決意に至らせたことも、また歴史の語るところです。国民の多くがこの大義を共にしたからこそ、かくも過酷な戦争を耐えたのではないかと思うのです。仮に、報告書が述べるように、単なる”侵略”目的の戦争であったならば、連合国軍を畏怖させるほどの精神性を発揮することはなかったことでしょう。当時の国制や日本軍の行動にも反省点や批判点は多々ありますが、軍人を含めて、当時の日本人の心に嘘偽りがあったとは思えません。そうであるからこそ、インドネシアでは、独立戦争義勇兵として数千人ともされる元日本兵が参加したのではないでしょうか。また、ベトナムにあっても、独立戦争に600人ほどの残留日本兵が参加したと言います。

 日本国は、連合国側の大義を否定しませんし、今後、国際社会において自由と民主主義を脅かす国が現れ、侵略を開始したならば、大義を共にする国として一緒に戦うことでしょう。その一方で、敗戦を以って先の大戦における日本国の大義を全否定することも、あまりに極端で偏った評価ではないかと思うのです。

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