SEALDsにみる学生運動の変質
学生運動の始まりは、19世紀ドイツのブルシェンシャフトに代表されるヨーロッパの自由主義運動にあり、以来、学生は、政治改革の担い手として期待される存在となってきました。理想に燃えた若者達は、しばしば時の政府と全面対決に至り、弾圧によって命を散らすことも珍しくはなかったのです。
識字率の低い時代には、大学生は選ばれたエリートであり、高等教育で育まれた知識と教養が社会を導く原動力となりましたし、人々の尊敬と信頼を集める理由ともなりました。おそらく、この構図は、日本国で言えば、安保闘争の頃まで通用したでしょうし、中国では、天安門事件、そして今日でも、台湾や香港の学生運動において見られます。しかしながら、目下、日本国で活動しているSEALDsの学生運動は、これらの学生運動とは、全く、異質なように思えます。何故ならば、大学進学率が50%ほどに達し、かつ、他の世代でも大卒者が珍しくはない時代では、改革の知的先駆者としての学生の立場は低下しています。また、かつての安保闘争時代は、ソ連邦崩壊以前でしたので、社会・共産主義に理想を求めた人々が出現したことも理解に難くありませんが、今日の共産党系の学生団体は、共産主義国家の失敗と弾圧体制を知りながら社会・共産主義に共鳴している人々です。既に失敗した思想に基づく運動が、人々の支持を集められるはずもありません(この点、台湾や香港の民主化運動の方が一般の人々の期待を担っている…)。加えて、かつての学生運動は、人々のために自らの命をも犠牲とする覚悟がありましたが、今日の学生運動は、政党や政治団体というバックが付いており、身の安全は守られています。
しかも、SEALDsのメンバーの発言を聞いておりますと、、昨日の記事でも指摘しましたように、既に自己保身に走っております。公聴会での発言には、虚偽や虚飾が見受けられ、実直や誠実が持ち味の学生運動の魅力をも自ら打ち消しているのです。実のところ、SEALDsのようなイデオロギー色の強い”組織された学生運動”こそ、若者層の政治に対する無関心や忌避の原因なのではないでしょうか。過激な組織的活動ではなく、より自然で身近な形で学生が政治に接する方法こそ、今日の日本国には必要なのではないかと思うのです。
よろしければ、クリックをお願い申し上げます。