白鵬問題-日本の相撲道形骸化の危機
一昨日、大相撲の春場所において、白鵬関が優勝を決めた千秋楽の結びの一番では、場内にブーイングが沸き起こり、座布団も投げられる始末であったそうです。36度目の優勝とはいえ、立会と同時に”変化”したというのですから。
この件について、国技館の観衆がブーイングを浴びせた理由は、日本国の国技としての相撲では、横綱は、”横綱相撲”をとるべき、とする共通認識があるからです。お相撲には詳しくはないのですが、横綱には幾つかの暗黙の禁じ手があり、”横綱相撲”とは、この禁じ手を使わずして正々堂々と、誰もが”あっぱれ”と感じ入る相撲ぶりを見せることを言うそうです。禁じ手の使用については、罰則規定があるわけではなく、それ故に、白鵬関もその一つである”変化”を、優勝が決まる大一番の決まり手として使用したのでしょう。しかしながら、ここで白鵬関は、一般日本人の観衆との間に成立していた暗黙の了解を破ったことになるのです。近年、外国人力士が急増しつつも、髷、まわし、土俵など、表面的には外国人力士も日本国の伝統を引き継いでおります。その一方で、相撲道とでも言うべき精神性については、継承されているとは言い難いようです。モンゴル相撲にあっては、勝つためには手段を選ばずが当然であることは、元朝青龍関のドルジ氏の擁護発言を見ても明らかです。
今回の一件で明らかなことは、白鵬関が持ち込んだモンゴル相撲の精神を認めるとしますと、日本国の伝統的な相撲道が消えかねないことです。精神なき形骸化した相撲になるのか、それとも、相撲道をも継承してゆくのか…。私は、相撲道を失ったお相撲は、もはや、日本国の国技としての相撲とは言えないように思うのです(ドルジ氏は、国技は外国人力士が守る、と断言しておりますが…)。
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