相撲道差別論への反論
先日、千秋楽における白鵬関の変化について記事を書いたのですが、他の方のブログを訪問いたしましたところ、白鵬関に対する批判は差別に当たるとする意見が掲載されておりました。本ブログに直接コメントが寄せられたわけではありませんが、本日は、この差別論について反論を書いてみようと思います。
相撲道差別論を書かれた方は、外国人力士の流儀を認めないのは、外国人差別に当たる、ということのようです。この論からしますと、私のみならず、白鵬関にブーイングを浴びせた観客の方々も皆、”差別主義者”となるわけですが、この批判は正当なのでしょうか。この論に従って、”外国の文化や価値観を認めない”を差別の判断基準としますと、意外なことに、白鵬関もまた、差別主義者となります。何故ならば、日本国の相撲道を否定した結果が、千秋楽の変化であったからです。双方ともが、相撲における相手の文化や価値観を否定しているのですから、両者とも、”差別主義者”となるわけです。つまり、この問題は、差別問題ではなく、価値観をめぐる一種の国際摩擦なのです。それでは、二つの文化、即ち、日本国の相撲道とモンゴル相撲の流儀とが摩擦を起こした場合、それを収める方法があるのでしょうか。衝突が起きた場所は日本国であり、かつ、相撲は、日本国の国技です。この二つの状況からしますと、日本国の相撲道が優先されるのが妥当いうことになります。国際法の世界でも、第一義的には、属地主義によってその国の法が適用されるものですし、白鵬関は、あくまでも日本国の相撲界への参加者であるからです。横綱と雖も、相撲界のみならず、観衆をも無視して、勝手に相撲道を変えることできないはずです(仮にこの行為が認められれば、相撲界の”独裁者”となってしまう…)。
モンゴルであれば、白鵬関の考え方は通用しますし、何らの批判を浴びることもないことでしょう。しかしながら、相撲が日本国の伝統文化であればこそ、白鵬関が批判を受けることは、致し方なかったのではないかと思うのです。
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