時事随想抄

歴史家の視点から国際情勢・時事問題などについて語るブログ

「やっちゃえ」は悪い言葉では?

 今朝方、新聞を読んでおりましたところ、広告に関するメディアミックス部門のグランプリに自動車会社のCMである「やっちゃえ」が選ばれたとする記事に目が釘付けとなりました。正直申しまして、このキャッチコピーに背筋が寒くなったのです。

 「やっちゃえ」という言葉は、通常は、悪い事を行うときに使うものです。後先構わずの無責任な行動、あるいは、犯罪などを行うときに使われています。例えば、誰も見ていないから、万引きを”やっちゃえ”とか、喧嘩をけしかけて”やっちゃえ”というような場合です。また、気に入らない人や邪魔に感じている人に対して”やっちゃえ”と言う時には、暴行、さらには、殺人まで含意します。周りなど関係なく、”やってしまえばこちらのもの”というニュアンスがあるのです(手段を選ばず、既成事実化で物事を通そうとしている態度…)。作成した側は、新たな技術開発に挑戦する”期待感”を表わしたそうなのですが、果たして、この言葉に、期待感を感じる人はいるのでしょうか。動画でCMを確認しましたところ、人間には”やっちゃう人”と”やらない人”と二種類がいるとし、前者を高く評価しておりましたが、技術開発にも血の滲む努力が必要ですので、人生を面白おかしく生きる”やっちゃう人”が必ずしも新技術を生み出すわけでもありません。

 「やっちゃえ」、あるいは、「…ちゃえ」という言葉遣いは、「…してしまえ」を短くした表現ですので、他者に有無を言わせない行動を一方的に宣言する未来完了形であり、極めて、自己中心的な表現です。決して誉められたものでもありませんので、高評価には疑問を感じざるを得ないのです。せめて相手に同意を求める呼びかけ型の「やってみましよう」や自分自身の決意表明としての「やるぞ」の方が、余程、技術開発に対する誠実な姿勢を感じさせるのではないかと思うのです。

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