時事随想抄

歴史家の視点から国際情勢・時事問題などについて語るブログ

なぜ文明から野蛮が生じたのか

  今日も、古代・中世史研究家の倉西裕子が記事を書かせていただきます。宗教とは何か、という根本的問題があります。‘どのような人生を送ったらよいのか’という問いかけがその基本にあり、自己の利益のみの追求を是とする宗教と、人間によって構成される社会の健全さや安全が確保されて、始めて人間らしい人生を送ることができるという視点から、普遍的な禁止事項を定めた宗教があるようです。
 
キリスト教イスラム教、仏教、正統ユダヤ教(非バビロニアユダヤ教)などは、その教典を読む限り後者に属します。後者型の宗教が多いということになるでしょう。一方、前者型は、自己利益のために殺人、窃盗、姦淫、偽証などを行うことを是とし、何ら落度の無い無実の人々が、命や財産を奪われたりする結果をもたらすことを容認する宗教ですので、しばしば‘カルト教団’として認定され、国によっては刑罰の対象ともなっています。
 
では、後者型の宗教であれば安全であるのか、と言いますと、そうではなく、所謂‘宗教の堕落’という問題が発生しています。それは、昨日、イスラム教のメッカ巡礼問題で指摘いたしましたように、教典に曲解を施し、禁止事項を破っても‘救われる’という逃げ道をつくってしまう問題です。キリスト教では、ローマ教皇庁によって発付された免罪符が有名ですが、仏教では、親鸞の「況や悪人をや」という言葉の本来の意味の曲解問題があります。‘殺人を犯した人は地獄へゆく’ということになりますと、正当防衛や上司の命令によって殺人を犯してしまった武士(軍人)も地獄へゆくことになってしまいます。このような仏教の絶対平和主義の問題を解決するために、親鸞は、防衛や上司の命令によるやむを得ない殺人は容認すべきとする意味において「況や悪人をや」という言葉を発したわけです(国家などを防衛する軍人・軍隊が存在しなくなると、侵略を受けた場合、国民は奴隷化されたり虐殺され、国家滅亡というもっと大きな惨劇が生じる)。ところが、この言葉を「犯罪者も救われる」と曲解して、犯罪を奨励しているような仏教系新興宗教が発生しているようです。
 
犯罪とは、そもそも自己の利益のみの追求という考え持つ人によって生じる行為ですので、後者型の如何なる宗教も、‘宗教の堕落’が発生いたしますと、自己の利益のみの追求を是とする前者型のカルト宗教と何ら変わりのない宗教となってしまうのです。
 

モーゼの十戒the Ten Commandments of Moses』の「汝殺すなかれDo notkill」という言葉も、絶対平和主義として解釈すべきか、それとも条件付き平和主義として解釈すべきか、古代のユダヤ人の間で大きな議論となったようです。そもそも『モーゼの十戒the Ten Commandments of Moses』は、野蛮の支配していた古代にあって、極めて文明的な教えです。すなわち、人類が、精神的にも野蛮から文明へとむかう光明となるような教えであったと言うことができます。

 
その『モーゼの十戒the Ten Commandments of Moses』が絶対的平和主義から条件付き平和主義へと至ったまではよいのですが、さらに、‘宗教の堕落’の段階へと進んでしまったのが、バビロニアユダヤ教であるようです。バビロニアユダヤ教を奉じるイルミナティーがカルト教である理由は、この点にあります。
 

かくて、野蛮から文明が生じたはずなのですが、文明から野蛮が生じてしまったと言えるでしょう。


 

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(続く)