時事随想抄

歴史家の視点から国際情勢・時事問題などについて語るブログ

心の終戦への遠い道

 ”戦争は、始めるよりも、終わらせることの方が難しい”としばしば言われますように、いずれの時代にありましても、戦いを終わらさせることは至難のわざです。
 国際法におきましては、戦争は、一方の降伏後、程なくして、双方の間で講和条約が結ばれることにより完全かつ最終的に終結します。一たび講和条約が結ばれた限り、両者はもはや敵味方ではなくなり、以後、先の戦争について相手方を責めることはできなくなります。講和条約のこの側面に鑑みますと、サンフランシスコ講和条約を結びました時点で、日本国は、アメリカに対して何らかの法的な要求を行うことはできなくなるのです。
 こうして、講和条約を以って戦争にまつわる全てが解決するように思われるのですが、それでも、心の終戦となりますと、これはまた、さらに難しい問題となります。何故ならば、古今東西を問わず、戦いとは、双方に遺恨を残すものだからです。しかも、相手方が禁じ手を使ったり、とりわけ残酷であったりした場合には、怨みというものが、心に深く刻まれてしまうものだからです。怨みの心ほど、人の心を攻撃に向かわせるものはありません。そもそも、5年に及ぶ太平洋戦争は、日本国の宣戦布告なしの真珠湾攻撃に始まり、アメリカの広島と長崎への原子爆弾投下で終わりました。いわば、始まりと終わりにおいて、双方が相手方に”怨み”を抱かせるような行動をとったことになるのです。復讐の連鎖が立ち切れずに憎しみ合う事例は、世界各地で見られます。例えば、普仏戦争の恨みが第一次世界大戦を生み、そうして、第一次世界大戦の恨みは第二次世界大戦を引き起こしました。それでは、どのようにしたら、戦火を交えた双方が、相手に対して穏やかな心を取り戻し、目に見えない矛を収めることができるのでしょうか?
 19世紀から20世紀初頭の時代を生きたマックス・ヴェーバーは、『職業としての政治』という書物の中で、”戦争の道義的埋葬は、現実に即した態度と騎士道精神、とりわけ、品位によってのみ可能である”と述べています。過去のことを持ち出して互いに責任問題を言い募ることは、政治的には不毛な行為であると。戦争の結果として心に残ってしまったわだかまりや怒りは、あるいは、ヴェーバーが指摘したように、精神性をもってしか解くことができないものなのかもしれません。日本には、幸いなことに”禊”という風習があります。悪しきものごとを水に流すことによって、心の内に留めぬようにするのです。これは、”許し”にも通じています。
 長い年月をかけて心を澄ますことに努めてゆけば、堅くなな恨みはほぐされ、やがては、消えてゆくのかもしれません。それは、まだまだ先にことかもしれませんが、このはるかに遠い道を、日本国民も、そうして、他の諸国の人々もまた、歩み始めることを願うのです。