時事随想抄

歴史家の視点から国際情勢・時事問題などについて語るブログ

イルミナティーを構成する3大勢力

  昨日本ブログにて扱いましたように、イルミナティーthe Illuminatiesとは、ネイサン・ロスチャイルドの依頼を受けたイエズス会士(フランシスコ派)のヨハン・アダム・ヴァイスハウプトJohann Adam Weishauptによって結成された「黒いユダヤ人」の国際秘密結社です。今日は、そのイルミナティーを構成する3つの中心勢力について説明しておきます。

 

 第一の勢力は、イエズス会フランシスコ派です。イエズス会は、設立後まもなくフランシスコ派と反フランシスコ派に分かれるようになっております。両者の思想には違いがあり、フランシスコ派は、アッシジのフランチェスコFrancesco d'Assisi(1182年 7月5日 - 1226年10月3日)の「貧しさを礼賛することにかけては徹底しており、物質的な豊かさのみならず、精神的ないし知的な豊かささえも認めなかった」という思想に共鳴している派閥であり、人類の知性や理性を軽んじる傾向にあります。

 

聖フランチェスコのような考え方を実践した場合、人類の非文明化、動物化が起こることはイルミナティー問題を考えるにあたり重要です。イルミナティーによる世界支配計画は、人類の非文明化・動物化・家畜化をともなう計画である可能性があるからです。イグナティウス・ロヨラとザビエルは、未開地域の女性崇拝とも言える「黒マリア」の秘かなる信仰者であったとされることもこの点を補います。反フランシスコ派は、こうしたフランシスコ派の思想に反対している勢力であると言えるでしょう。イルミナティーは、両派閥のうち、フランシスコ派を中心勢力としておりますので、イルミナティーの活動目的は、人類の非文明化、動物化、奴隷化であることにもなるのです。

 

 第二の勢力はロスチャイルド家です。フランクフルトのユダヤ人ゲットー出身のロスチャイルド家は、昨日、述べましたように、元の家名は「カン・ハンKhan」であり、モンゴル系の「黒いユダヤ人」であると推測することができます。従いまして、チンギス・ハンGenghis Khanの思想が、ロスチャイルド家の思想を考える上で参考となります。「蒼い狼」と自称したチンギス・ハンは、‘人を挟み撃ちにすることによって不幸のどん底に陥れることを最大の喜び’とする狡猾かつ残忍な考えの持ち主でした。1236年に、チンギスの孫のバトゥ・ハーンによって総大将に任命されたスボタイの率いられたモンゴル軍が、ヨーロッパに侵入するのですが、「Subotai’s policy to leave in his rear no organized groups of people or nations(組織的住民や国民を一つだに残さないことで向後の憂いを断つというスボタイの作戦)(Gabriel Ronay, The Tartar Khan’s Englishman, p.151)」によって、被侵入地の住民は虐殺されてゆくのです。すなわち、モンゴル軍が通過した後には、累々たる死体の山が築かれ、当時にして、8千万もの人々が、モンゴル軍によって殺害されたることになったのです。このようなモンゴル帝国が持っていたような拡大志向と残忍で邪魔者を排除することにかけては容赦ない悪い性格は、イルミナティーの特徴でもあります。

 

 第三の勢力はサスーン家です。サスーン財閥として英国、インド、中国を拠点に世界規模で活動しているサスーン家がバグダットの‘ユダヤ人(セファルディ系黒いユダヤ人)’の出身であることは、近現代史の真相を明らかとするために重要であるかもしれません。Wikipediaによりますと、サスーン家の世界展開の素地をつくったデイヴィッド・ベン・サスーンDavid Sassoon(1792年10月 - 1864年11月7日)は、以下のような経歴の人物です。

 

――スペインに起源を持つセファルディムの出身で、父サレハ(Sason Ben Saleh)はバグダードのパシャの主任会計を勤め、同市のユダヤ人コミュニティーを率いる資産家だった。その後ダウード・パシャによるユダヤ人迫害を逃れてペルシャを経て一家でボンベイに移住し、1832年にサスーン商会を設立、イギリスの東洋貿易に多大な貢献をした。特に阿片戦争のきっかけとなった当時のアヘン貿易において重要な位置を占めていた。その後は香港、上海にも営業所を構える。さらに、南北戦争によりアメリカ産綿花の輸出が途絶えたのを機にインド産綿花の輸出も成功させた。これらの功績が認められて1853年にイギリス国籍を取得。

 

また、デイヴィッドはボンベイユダヤ人コミュニティーを率いると共に、同地やプーナ、故郷のバグダッドなどに病院やシナゴーグ、学校を建設するなど慈善活動も行った。ボンベイでは英語での教育を施すEEE高等学校やサスーン病院を設置した。デイヴィッド自身は生涯英語を話せず、バグダード時代からのアラブ風の生活様式で生涯を過ごしたが、息子のアブドゥッラーにはイギリス人としての教育を施した。1864年にプーナにて死去した。

 

息子のアブドゥッラーは後にアルバートと改名し、イギリスに渡って準男爵となった。彼の子孫が現在のサスーン家である。――

 

このような経歴をめぐりまして、①「スペインに起源を持つセファルディSephardic Jewムの出身」であることは、1492年となってからスペインから追放された‘イスラム化、あるいは、モンゴル化していたユダヤ人’であった可能性がある点、②ターバンを巻き、完全にイスラム生活様式でその生涯を過ごした点、そして③イスラム教では、その使用を認められていた阿片の貿易に携わっていた点から、少なからず、デイヴィッド・サスーンは‘イスラム化したユダヤ思想’を持っていたと推測することができます。中国大陸への進出といった点からは、あるいは、もともとは「モンゴル系黒いユダヤ人」であったのかもしれません。いずれにいたしましても、特にサスーン家は、その出身地から、バビロニアユダヤ教の信奉者であると推測することができます。

 

こうした出自に加えて、アブドゥッラーの子息のエドワード・サスーン Edward Sassoon (1856年 - 1912年)が ロスチャイルド家の女性Aline Caroline de Rothschildと結婚している点も注目されます。ロスチャイルド家は、「Khan」という元の家名が示すように、「モンゴル系黒いユダヤ人」であったと考えられますので、世界7大財閥の2つであるロスチャイルドとサスーンとの結びつきによって、イスラム教やモンゴル思想寄りの「黒いユダヤ人」が、その勢力を拡大させることになったのではないか、と推測することができます。こうしたイスラム寄りの思想もイルミナティーの特徴の一つであると言うことができます。

 

現在では、ロスチャイルド家とサスーン家は一体となっているようですが、イルミナティーを構成している3つの勢力の背景は、イルミナティーが如何に“やっかいな問題児”であるのかを示唆しているのです。

 

(続く)