時事随想抄

歴史家の視点から国際情勢・時事問題などについて語るブログ

大学での英語講義三割は無謀な案

 教育再生会議により纏められた第三次報告では、大学の講義のうち三割を英語で実施することが目標として掲げられたそうです(本日日経新聞朝刊)。この案の背景には、大学教育の国際化の推進があるのでしょうが、現状を見る限りにおいては、いささか無謀なように思うのです。

 何故ならば、第一に、大学の講義を英語で受けるためには、高等学校の段階で、専門的な学問内容を英語でも充分に理解できるまで、英語教育をレベル・アップをしておく必要があります。ゆとりの教育以来、学力が低下傾向にあり、かつ、他の教科にも時間を割かねばならない状況にあって、英語のみハイ・レベルを求めることには無理があります。

 第二に、英語で講義される三割は、どのような学問領域が対象であるのか、明確ではありません。例えば、数式や化学式などを用いる理系の科目の場合には、記号が言語の役割を果たしますので、それ程難しくはないかしれませんが、文系となりますと、そう簡単ではありません。例えば、日本文学など、自国の文化体系において学問が進められてきた領域では、英語への翻訳自体が困難な作業を伴うものであり、また、その必要性も疑問です。さらに、法学などでも、自国の法律については、日本語で講義をしなくては、実社会で使える知識とはなりません。

 第三に、本当の国際化とは、日本の研究を、人類の発展に貢献するレベルに上げることであって、外国からの学問輸入に力点をおくべきではないと思うのです(三割の講義は海外研究の紹介になりそうなので・・・)。世界最高レベルの学問を日本において追及し、その成果を海外に発信してゆくためにこそ、英語を活用すべきと言えましょう。学問や研究の国際交流は大切ですが、世界各地に学問の拠点があった方が、多様な発展ルートを確保できるのではないでしょうか。

 高い理想を掲げたとしても、それに現実がついてゆけなくては、改革を行う意味がなくなってしまいます。最悪の場合には、学生のほとんどが講義内容を理解できず、結果はむしろ、レベル・ダウンとなってしまうかもしれません。教育は、国家百年の計と言いますので、無謀な計画を推し進めて、かえって、教育を壊してしまう、ということにならないように、くれぐれも気を付けていただきたいと思うのです。