時事随想抄

歴史家の視点から国際情勢・時事問題などについて語るブログ

公の”悪”とは私の優先

 しばしば”悪”の定義は難しい、と言われます。しかしながら、政治や行政といった公的分野における”悪”の定義付けは、それ程難しくはなく、古今東西、共通しています。それは、国家国民のためにあるべき公の権力を、私利私欲のために用いる、ということです。

 およそ、歴史に登場してくる悪い為政者は、権力を我が物とし、その権力を濫用して自らの欲望や野心を追及しようとした人物として描かれるものです。古代ローマ皇帝のネロ、蘇我入鹿平清盛といった人物達は、実像の如何を問わず、私利私欲で国家を傾けたことを理由として糾弾されています。誰もが、この理由を示されるすると、たとえ悲惨な最後を遂げたとしても、”いた仕方なし”と納得してしまうのです。歴史上の大悪党ではなくとも、現代でも、私利私欲に走る政治家や官僚の腐敗や売国行為は国民の危惧するところとなっており、リアルタイムで犯罪性が明らかになる分だけ、現代の国民の方が、”悪”を実感しているかもしれません。

 こうした公の”悪”を退治するには、公人の倫理教育を徹底するとともに、制度的に公人の私益追求を防止する仕組みを作らなくてはなりません。”利して利することなかれ(国民を利しても自らを利することなかれ)”という格言は、公人が噛み締めるべき普遍の倫理と言えましょう。