時事随想抄

歴史家の視点から国際情勢・時事問題などについて語るブログ

長野聖火リレーに見るアンチ弾圧国家vs.法治国家

 長野の聖火リレー対しては、チベット弾圧を行った中国政府に対する抗議の絶好の機会であったにも拘わらず、中国の動員作戦によって十分に活かせなかったことを残念とする意見と、長野警察の警備によって無事に終えるたことを評価する意見とに分かれているようです。この両者の間には、物事の判断基準において、大きな隔たりがあると思うのです。

 中国のチベット弾圧行為に対して、それを良しとする人々は、めったにはいないはずです。人間の自然な感情として、罪もない人々を、組織的に残酷に虐待したり、殺害したりすることは許されようもありません。人類の歴史とは、野蛮や残酷との戦いであったのですから、善光寺さんの法要やフリー・チベットの叫びをはじめ、アンチ弾圧国家の人々の主張は、すべての人々の心に訴えたことでしょう。

 一方、法治国家の尊重する人々は、法秩序を乱すような騒乱が起きないことのみを良しとする考え方です。しかしながら、特にナチス・ドイツ法治主義の経験から、戦後の法学においては、この考え方は大きな反省を迫られることになりました。この反省は、政府が、一般的な道徳や倫理から外れた法律を制定したり、命令を下す可能性がある以上、政府の行為は、合法的であるということだけでは充分ではないとするものです。ただし、治安第一と考える人々にとっては、法治主義のこの重大な欠点は目に入らないかもしれません。

 さて、本当の問題は、”これから”、と言うことになります。法治主義をもって長野の聖火リレーを評価した方々が、今後とも、チベットの人々の抗議運動を中国政府による”暴動”とみなすか否か、ということが問題なのです。むしろ、長野の聖火リレーを治安面から評価した人々は、聖火リレー北京オリンピックを離れてこそ、その価値観と人間性を問われることになるのですから。

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