時事随想抄

歴史家の視点から国際情勢・時事問題などについて語るブログ

精神鑑定の功罪

 罪を犯した人に刑罰を科すためには、その人に責任能力が備わっていなくてはなりません。つまり、犯人の自己コントロール能力の程度を測るために、裁判に先立って、精神鑑定が行われることになるのです。しかしながら、この制度、どこか奇妙な制度にも思えるのです。

 第一に、殺傷や窃盗は誰から見ても犯罪ですので、健全な心を持つ人であれば、まずはこうした行為を行いません。すなわち、犯罪は、もとより異常な行為なのですから、その行為を意思した精神の異常を問うことにはあまり意味がないのです。

 第二に、もし、精神の異常を理由に無罪になるならば、政府は、精神に異常を持つ人を検査し、もし犯罪認識能力がないと判れば、予めその人を拘束しなければならないことになります。犯罪が行われた後になってから、心神耗弱などを理由に罪を科すことができないとしますと、一般社会は、常に危険に晒されることになるからです。

 第三に、同じ犯罪行為を行っても、精神鑑定の結果次第で、死刑から無罪までの開きが大きすぎることも問題点の一つです。精神鑑定書の紙一枚で、結果には雲泥の差が生じるのです。ここに、逃げ道や恣意性が介在する可能性が見えもします。

 このように考えますと、もし、犯人が、社会において通常の生活を送ってきたならば、精神鑑定による無罪は適用すべきではないのかもしれません。昨今、凶悪な無差別殺人事件が頻発していますが、猟奇的な事件や常軌を逸した事件ほど、精神の異常を盾に無罪を主張できるのは、どう考えましてもおかしなことです。やはり、犯した行為によって罰は受けるべきなのではなか、と思うのです。

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