時事随想抄

歴史家の視点から国際情勢・時事問題などについて語るブログ

政府見解と政府解釈が国家に混乱を巻き起こす

 近年、政府見解や政府解釈なるものが問題となる出来事が多く見られるようになりました。例えば、田母神氏の更迭は、「村山談話」や「河野談話」に述べられた政府見解が問題となりましたし、つい先日も、政教分離の問題をめぐり、内閣法制局の答弁が撤回されるという事件がありました。さらに、集団的自衛権の発動についても、政府解釈の存在こそが問題の核心にあります。それでは、政府見解や政府解釈とは、一体何なのでしょうか。

 ここでひとまず、1)政府見解を、時の政府が示した見解とし(政治サイド)、2)政府解釈は、内閣法制局が示した法律的な判断(行政サイド)、として分けてみることにします。この両者をめぐる混乱は、政治の混乱要因ともなっているようなのです。 

1)政府見解にも、政府解釈にも、効力に関する合意がないこと。両者とも、法規としての拘束性を持つと定めた法律はありません。にもかかわらず、何故か、これらを金科玉条の如くに捉えている人々もいます。

2)効力についての合意がないことに加えて、変更のルールもないこと。例えば、集団的自衛権の発動に関する政府解釈については、有識者会議が設けられたりしますが、この手続きを要するとする根拠はありません。また、政府見解である村山談話河野談話を変更する場合の方法についても、明確な合意があるわけではありません。

3)政府解釈をめぐっては、政治サイドと行政サイドの権限が明確でないこと。この不明確さによって、行政が政治問題に口を挟んだり、反対に、政治が法律問題に介入する結果を招いています。例えば、集団的自衛権に関する内閣法制局の政府解釈は、行政サイドが政治上の決定権を握ってしまった事例ですし、先日の政教分離問題をめぐる閣議決定の撤回は、逆に、政治サイドが、行政のチェック機能を否定した例です。

4)政府見解に対する内閣法制局の役割が曖昧であること。もし、「村山談話」が内閣法制局のチェックを受けていたならば、”侵略”の定義に関する国際法との整合性も論じられたはずであり、その判断によっては、政府見解と政府解釈が異なる場合も想定されます。

 以上の問題点を考えますと、政府見解と政府解釈についてよく整理し、混乱を招かないように、ルール化をはかるべきと思うのです。このまま曖昧な状況が続きますと、それぞれが勝手に利用することで、政府見解や政府解釈が一人歩きし、言論統制の道具ともなりかねないと思うのです。

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