時事随想抄

歴史家の視点から国際情勢・時事問題などについて語るブログ

韓流は経済合理性の結果ではない―自由競争が働かない放送事業

 ここ数日、ネットでは、”韓流”とフジテレビに対する批難の声がわき上がっているようです。中には、経済合理性の結果として擁護する声も聞かれるのですが、放送事業には、自由で公正な競争は、働いていないと思うのです。何故ならば、放送事業は、公共性が高いことに加えて、極めて特異な市場であるからです。

(1)局側の不透明なコンテンツ選択
 第1に、ドラマなどのコンテンツを選択する権利は、放送局側にあります。自由競争であるならば、局側が、視聴者の好みを推測して、高い視聴率が期待できる作品が選ばれることになります。しかしながら、”韓流”では、背後に韓国政府の補助金が動きますので、いわば、”賄賂”によって、韓国ドラマが選ばれるのです。つまり、自由競争の結果として、韓流コンテンツが選ばれているわけではありません。

(2)視聴者の自由選択は無意味
 第2に、放送局の収益は、視聴者からではなく、スポンサーによるものです。このことは、視聴者の自由な選択が、番組の編成や内容に直接影響を与えないことを意味しています。一般の市場では、製品の売れ行きが利益と結びつきますが、放送局の場合には、視聴率は、あくまでもスポンサーを獲得するための”参考データ”ぐらいでしかないのです。このため、韓国政府のバックアップやスポンサーさえ繫ぎとめておけば、放送局の経営は傾かず、視聴者の意向など無視しても構わないことになります。

(3)予測不可能な空間支配の問題
 第3に、商品や製品であるならば、消費者が購入しなければ視界には入りません。しかしながら、テレビ放送の場合には、不快な番組は、視界に入ってからテレビを消すという行為を、視聴者側が、能動的にしなければなりません。嫌なら見なければよいのですが、視聴者は、予測ができないため(突然に”韓流が”入り込むことも・・・)、それが一瞬であっても、嫌なものを見せられるのです。

 以上の諸点から、放送というものには、一般の事業とは異なる特別な事業であり、不自然な”韓流”には、この点を踏まえた対策が必要であると思うのです。

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