時事随想抄

歴史家の視点から国際情勢・時事問題などについて語るブログ

バグダットの「モンゴル系黒いユダヤ人」とサスーン家

 今日も、古代・中世史研究家の倉西裕子が記事を書かせていただきます。バグダットの「モンゴル系黒いユダヤ人」問題と関連して、サスーン財閥として英国、インド、中国を拠点に世界規模で活動しているサスーン家がバグダットの‘ユダヤ人’の出身であることは、近現代史の真相を明らかとするために重要であるかもしれません。Wikipediaによりますと、サスーン家の世界展開の素地をつくったデイヴィッド・ベン・サスーン(英: David Sassoon179210 - 1864117日)は、以下のような経歴の人物です。
 
――スペインに起源を持つセファルディムの出身で、父サレハ(Sason Ben Saleh)はバグダードのパシャの主任会計を勤め、同市のユダヤ人コミュニティーを率いる資産家だった。その後ダウード・パシャによるユダヤ人迫害を逃れてペルシャを経て一家でボンベイに移住し、1832年にサスーン商会を設立、イギリスの東洋貿易に多大な貢献をした。特に阿片戦争のきっかけとなった当時のアヘン貿易において重要な位置を占めていた。その後は香港、上海にも営業所を構える。さらに、南北戦争によりアメリカ産綿花の輸出が途絶えたのを機にインド産綿花の輸出も成功させた。これらの功績が認められて1853年にイギリス国籍を取得。
 
また、デイヴィッドはボンベイユダヤ人コミュニティーを率いると共に、同地やプーナ、故郷のバグダッドなどに病院やシナゴーグ、学校を建設するなど慈善活動も行った。ボンベイでは英語での教育を施すEEE高等学校やサスーン病院を設置した。デイヴィッド自身は生涯英語を話せず、バグダード時代からのアラブ風の生活様式で生涯を過ごしたが、息子のアブドゥッラーにはイギリス人としての教育を施した。1864年にプーナにて死去した。
 
息子のアブドゥッラーは後にアルバートと改名し、イギリスに渡って準男爵となった。彼の子孫が現在のサスーン家である。――
 
このような経歴をめぐりまして、①「スペインに起源を持つセファルディムの出身」であることは、1492年となってからスペインから追放された‘イスラム化、あるいは、モンゴル化していたユダヤ人’であった可能性がある点、②ターバンを巻き、完全にイスラム生活様式でその生涯を過ごした点、そして③イスラム教では、その使用を認められていた阿片の貿易に携わっていた点から、少なからず、デイヴィッド・サスーンは‘イスラム化したユダヤ思想’を持っていたと推測することができます。中国大陸への進出といった点からは、あるいは、もともとは「モンゴル系黒いユダヤ人」であったのかもしれません。
 
こうした出自に加えて、アブドゥッラーの子息のエドワード・サスーン (Edward Sassoon) 1856 - 1912年)が ロスチャイルド家の女性Aline Caroline de Rothschildと結婚している点も注目されます。ロスチャイルド家は、「Khan」という元の家名が示すように、「モンゴル系黒いユダヤ人」であったと考えられますので、世界7大財閥であるロスチャイルドとサスーンとの結びつきによって、イスラム教やモンゴル思想寄りの「黒いユダヤ人」が、その勢力を拡大させることになったのではないか、と推測することができるのです。
 
また、サスーン財閥は特に東洋に関心を持っているようであり、サスーン一族のデイヴィッド・サッスーン(1910 - 1991年、おそらくは、エドワード・サスーンの子息)は、神戸に拠点を設け、兵庫県神戸市北野町にある邸宅は、現在は「旧サッスーン邸」と呼ばれているそうです。「北野」といいますと、北野天満宮菅原道真が想起されます。菅原道真が「菅宰相(かん・さいしょう)」と称されていたことを踏まえますと、掛詞のように、「菅」には、「Khan」がかけられているのではないか、と疑ってしまいます。

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(続く)