時事随想抄

歴史家の視点から国際情勢・時事問題などについて語るブログ

チーム明治天皇説:3人の“明治天皇”

  本日も、古代・中世史研究家の倉西裕子が、記事を書かせていただきます。本日は、「チーム明治天皇説」につきまして、纏めておきます。
 
明治天皇すり替え説につきましては、大室寅之助説が最もよく知られており、確かに大室寅之助は、「チーム明治天皇」の一人ではあるようです。現在の“皇室”支持者の中には、この説を認めて大室寅之助の子孫として、“皇室”を崇敬している人々もあり、その理由は、山口県の大室家は、南朝の子孫であるという説にあるようです。
 
この説については、多くの研究があり、インターネット上に公開されているそれらの研究によりますと、寅之助の父親の作蔵は、まったくの身元不明者であり、母親のスエは、京都西本願寺の大谷家の血縁者であり、山口県田布施町の正興寺に住んでいた際に、作蔵と知り合って結婚しているとのことです(作蔵を朝鮮人密入国者とする説もある)。その後、スエが作蔵と離婚し、南朝後醍醐天皇の末裔という伝説のある「大室」という姓の人物と再婚したことから、寅之助は、スエの連れ子でありながら、大室姓を名乗るようになったそうです。
 
従いまして、大室寅之助をめぐっては、まったく皇統を継いでおらず、明治維新という「イルミナティー革命(「黒いユダヤ人」系の最下層民を王や天皇に据える秘かなる易姓革命)」によって、“明治天皇”となった人物であると言えるでしょう。おそらくは、寅之助の父親の作蔵は、東南アジアの日本人街に居住していた黒いユダヤ人系・朝鮮系・東南アジア系の人物であり、イルミナティーの手引きによって長州に密入国していたのでしょう。ニコライⅡ世が、明治天皇を「ヨーロッパのユダヤ人のようだ」と評した理由は、この辺にあるのかもしれません。
 
そして、「チーム明治天皇」ですので、大室寅之助の他にも“明治天皇”となっていた人物がいるようなのです。それは、西郷隆盛です。明治維新におきまして、最大の謎の一つが、西郷隆盛の写真が存在しないことです。まだ生前の西郷の姿を知る人々があった時代に造られた上野の西郷像をめぐって、西郷の妻が、まったく似ていないことに驚愕したと伝わるように、本者の西郷は、今日肖像画銅像などで知られる顔立ちや容姿ではなかったのです。では、なぜ、西郷の本当の顔立ちや容姿を隠匿する必要があったのでしょうか。
 
その理由は、西郷が「チーム明治天皇」の一人であったからなのではないか、と推測することができます。すなわち、西郷の本当の顔立ちや容姿が、国民に知られますと、両者が同一人物であることが、“バレ”てしまうからであったと考えることができるのです。
 
西郷の全ての肖像画及び銅像の基になったと言われる絵は、1880年代にエドアルド・キヨッソーネEdoardo Chiossone 1833121 - 1898411日)によって描かれております。そこで、キヨッソーネの経歴を調べてみますと、イルミナティーとの接点が見えてまいります。紙幣造りに興味を持っていたキョッソーネは、イタリア王国国立銀行に就職し、同国の紙幣を製造していたドイツのフランクフルトにあったドンドルフ・ナウマン社に1868年に出向しております。当時ドンドルフ・ナウマン社が、日本の明治政府が発注した政府紙幣明治通宝)も製造し、彼もその製造に関わっていたことから、来日したようなのです。Wikipedia(ドイツ語版)によりますと、創業者のベルンハルト・J・ドンドルフBernhard J. Dondorf1809 - 1902年)は、ユダヤ人であるそうですので、キヨッソーネは、イルミナティーとの接点があると考えることができるのです。
 
西郷隆盛は、1877年の西南戦争では亡くなっておらず、「チーム明治天皇」の一人となっていたとする推測は、強ち否定されえません。キョッソーネが西郷のモンタージュ肖像画を描いたのが1880年代、上野の銅像が西郷とは似ても似つかぬ顔立ちと容姿において建立されたのが1898年(明治31年)といったように、1877以降、西南戦争後、まさに、西郷が身長180cmの大男の“明治天皇”を演じていたのではないかと推測される時期にこうした本人とは似ていない肖像画銅像がつくられていた点も、こうした推測を補うでしょう。
 
さらに、「チーム明治天皇」は、もう一人存在していた可能性があります。インターネット上の情報によりますと、西郷は嘉永4(1851)年に、台湾に滞在しており、その際に、現地の女性との間に呉亀力という名の男子をもうけていたそうです。1851年もしくは1852年頃に出生していたといたしますと、明治維新の1868年には、16歳となっていたはずであることは、“明治天皇”が、16歳で即位した点を想起させます。あるいは、「チーム明治天皇」の一人は、西郷の子であったとも想像することができるでしょう。京都御所を制圧した際に、呉亀力を佑人親王とすり替えた可能性があるのです。西郷の長男である西郷菊次郎氏が、次郎という次男を意味する名であることも、西郷には、謎の長男があったことを示しているかもしれません。
 
このように考えますと、「チーム明治天皇」は、大室寅之助、西郷隆盛、そして、西郷隆盛の子息の3者によって構成されていたのではないか、と考えることができるのです。

 
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(続く)