時事随想抄

歴史家の視点から国際情勢・時事問題などについて語るブログ

政体天皇・国体天皇説への疑問

本日も、古代・中世史研究家の倉西裕子が、記事を書かせていただきます。「チーム明治天皇」の一人であると推測される大室寅之助をめぐりましては、落合莞爾氏が、明治維新の際に、大室寅之助が「明治天皇」として“政体天皇”に据えられ、“政体天皇”の他に“国体天皇”という別の天皇もあるのだから、現在の“天皇家”の血筋は、大室寅之助の子孫でもよいとする主旨の説を唱えております。この問題は、小室圭氏の問題とも繋がっているようですので、本日は、“政体天皇”と“国体天皇”の問題について扱います。
 
落合氏の“政体天皇”と“国体天皇”があるとする主張は、日本国内の真言宗系の勢力、すなわち、南朝後醍醐天皇系の寺社勢力などが、明治維新の際に、表の天皇として“政体天皇”、裏の天皇として“国体天皇”をつくったとする説です。すなわち、海外勢力から天皇家の血筋を守るために、“政体天皇”と“国体天皇”という2つの家系をつくり、“政体天皇”は『日本国憲法』や「皇室典範」に規定され、マスメディアに登場する現在の“皇室”の家系、“国体天皇”は、密かに民間に伝えられる家系であるということになります。
 
そして、真言宗後醍醐天皇との関連から、両天皇ともに、南朝の子孫という特徴があります。“政体天皇”には、南朝後醍醐天皇護良親王の子孫の家々のひとつで、長州にあった大室家の子孫がその地位に就き、“国体天皇”には、護良親王と和歌山の井口家の娘を父母とする堀川家の子孫がその地位に就いたそうです(後醍醐天皇は、吉野に宮を設けた際に、奈良や和歌山などの近隣地域の豪族の娘たちを女官としたため、後醍醐天皇を父祖とする家々が多数ある)。
 
こうした落合氏の政体・国体天皇説によりますと、明治天皇すり替え問題の本質は、天皇の血筋の保存問題、並びに、北朝天皇南朝天皇の正統性の如何の問題にあり、南朝正統論の日本国内の勢力によって、北朝系の明治天皇(祐宮)は、大室寅之助にすり替えられたということになるのですが、腑に落ちない点があります。
 
それは、落合氏は、大室寅之助が“政体天皇”となれた理由は、南朝護良親王の子孫の家筋であることにあると主張しているのですが、昨日、本ブログにて述べましたように、寅之助は出自不明の人物を父としており、母親のスエが大室家に嫁いだことによって、寅之助は大室姓を名乗るようになっておりますので、南朝天皇の子孫ではないことです。このことは、明治維新を推進した長州藩の人々の間では、よく知られていたはずなのです。にもかかわらず、大室寅之助が、“政体天皇”になれたのであれば、それは、むしろ、天皇家の血筋を全くひかない人物を「明治天皇」として日本国に配置するために、イルミナティーによって選ばれた人物であるからであると考えることができます(大室姓を名乗っているため、見かけ上は、後醍醐天皇の子孫に見える)。すなわち、密かなる天皇家の血筋の断絶作戦のために、イルミナティーによって寅之助は抜擢されたと推測することができるのです。
 
このことは、“政体天皇”として、大室寅之助を担ぎ出した人々の中には、騙された人々も多かったことを示しております。寅之助が連れ子であることが隠匿されていた場合、長州藩以外の人々は、「南朝の御子孫であるのならば」、とすり替えに協力してしまったかもしれないのです。このように考えますと、“国体天皇”も疑ってしかるべきであり、まずもって、誰が現在“国体天皇”であるのかを明らかにせねばならない、ということになるでしょう。

 
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(続く)